2013年6月9日日曜日

藤原彩人個展「空の景色と空な心/Scenery of The Sky and Vacant Mind」を観て



 ャラリー入り口は、住宅街にある個人宅の小さな玄関で、知らなければ開けることを躊躇する。開けると真っ白い一つの空間。
 ひとに対する出会いと同じで、作品が鑑賞者にとって好みかどうかは、第一印象で決まってしまう。藤原氏の作品は、人物がモチーフであるが、その表情が特徴的だ。しかし不思議なことに、レリーフ作品と立体作品とで表情の系列が違う。私にとって、より妖しく魅力的であるのはレリーフの人物の表情である。

 くて白い一枚壁の上方に裸の人物が二人ななめに向かい合ってしゃがみ込み、口に手を当ててささやき合っている。目では周囲に注意を向けている。聞かれたくないここだけの話しを交わしているのだ。彼ら(彼女ら?)の足下からは長い影が伸びている。それは地面に近い足から頭部へかけて広がっていき、影の頭頂部は壁の下方に位置することになる。
 この作品を正面から見上げると、レリーフと影表現の視覚的効果によって、奇妙な視覚の不安定感を味わうことが出来る。要するに、壁にもう一つの視覚的空間が作り上げられ、見ている私の脳が迷うのだ。実際空間の視覚でいくか、それとも、仮想空間の視覚で行くかと。この幻覚をより強く作り上げるのに人物の足下から長く伸びる影が大きな影響を与えているのは、手でそれを視界が外してみればよく分かるだろう。

 リーフというのは、絵画と彫刻の中間に位置していると言えるだろう。ほぼ平面であるため、立体的に見せるには絵画的なテクニック、すなわち遠近法が用いられる。しかしながら、色彩ではなく陰影でそれらを見せるためには、彫刻的な立体処理が必要になる。さらには、規定された視点から見て遠方へ向けて圧縮が掛かった立体物を視覚的に違和感なく変形処理するという、レリーフ特有の技法も必要となる。つまり、レリーフを成り立たせるには、絵画的視点の固定と彫刻的立体感覚、そしてレリーフ特有の変形技法が必要ということで、3者のなかではもっとも造形上の縛りが多いと言える。在廊していた藤原氏の話しを聞いていると、レリーフが課してくるこの難題を楽しみながら克服しているようだった。
 それにしても、人物だけではなくその影までもレリーフとして表現するという感覚に驚かされる。しかもそれは単なる一枚板(氏の作品は全て陶)ではなく数枚の複合体で、その合わせ目も人物像とリンクするように、もしくは影に内包される人体像に合うように作られている。言わずもがな、影は量がゼロである。それを、量を取り扱う彫刻において表している。それがレリーフという半絵画において採用されたというのは、重要な点である。そしてさらに、その影に仕込まれた稜線や顔の表情なども、実体と虚像との関連性を示唆するものとして見える。目のある影にとっての実体とは何か? 

 原氏は、影を彫刻するという行為によって、彫刻とそれを取り囲む空間性に対して挑戦を繰り出しているように見える。彫刻は実空間に存在することから、その構造や素材に注意の多くが払われる。絵画と違って鑑賞の視点には自由さがあるために、どこから見ても良いとも言われる。しかし実のところ、彫刻に対する視点が宙をさまようようになったのは近代以降に過ぎない。さらには、どこから見てもよいと言いながらも作家たちは仮想的な理想的視点を定義してきたはずだ。藤原氏はレリーフ制作によって、厳密な視点の決定に意識的になったと話す。
 そして、作中に目立つ大きな影。影は作中の人物がいる空間を定義している。さらに、影に彼らの顔姿が映り込んでいることから、それは噂話が持つ陰湿さのメタファーを果たしているが、私にはこの大きな影がレリーフを含む壁面に広大な仮想空間を作り出すことに成功し、また、それは実体と切り離せない存在の証明でもあることを強く示しているように思えた。

 レリーフ作品がその物理的大きさに加えて、視覚的イリュージョンとしてさらに巨大に見えるため、床に置かれた、成人の股下までほどの大きさの、4体の人物像になかなか目が行かなかった。これらは皆、口を力なく開けその内に歯を覗かせている。氏の作る立像はいつも足が短く腕が長い。実際の人物とはかけ離れた比率だが、粘土として立つにはこのような下方重心にならざるを得ない部分もあるだろうし、そこに氏が込めた意味合いもあるだろう。印象として仏像を思わせもする。興味深いのは、手の位置は膝との位置関係を重要にしていると氏が話したことだ。そうであるため、膝の位置が下がれば必然的に手も下がりつられて腕が長くなる。彫刻は構造的視点が重要視され、実際それがおろそかになるほど作品として弱い印象となる。人体の構造を前提とした見方ではなく、“膝と手の位置関係”という局所的構造を考慮しているというのは興味深い。
 また、これらの人物像は皆、顔と手足以外は白い釉が掛けられている。それは髪と衣服を表すわけだが、藤原氏曰く「できあがりを見たら、猿を思い起こさせた」。つまり、同色でまとめたことで、髪と衣服が一体化し、あたかも白い体毛から顔と手足だけ皮膚をさらしている猿のようだという。これは、私たち人類が頭髪と衣服の扱いについての示唆を与えるものだ。人類も遠い昔は体毛に覆われ、衣服など着ていなかった。やがて衣服は体毛と入れ替わり、体毛が果たしていた役割(それも着脱可能、変形可能)を担うようになった。その意味において、衣服は身体の一部である。頭髪は着脱は出来ないものの、それ以外の意味合いは似通っている。現代人にとって、頭髪も衣服も単なる身体保護ではなく、その形態や色彩によって自分の社会に対する立ち位置を示す重要なデバイスでもある。しかし、その流動性の高さは同時に、偽りの可能性をはらみ、結果として虚無感をそこに加えるのだ。着飾ってなんになる、あの世には着ていけぬと。氏の4体の白さには、人類にとっての頭髪と衣服の体社会的ツールとしてあり方と身体の一部としてのあり方の境界を尋ねられているように見えた。

 者の藤原氏は、制作に至る過程や思考過程を細かく語ってくれる。それらを伺っていると、氏が常に手を動かすことで思考しているというのが分かる。正に彫刻家である。形によって思考し、それを表し、そこから次の思考へ”造形を通して”進んでいく。また、とても彫刻芸術に対して真摯な姿勢で臨まれ、後進への教育も常に考えている。

 私もかつては同じ学舎で造形を学んでいたわけで、今でも造りたいものを多く心中に抱えてもいる。理由を付けて実現させない自分の情けなさを、同世代の展示を拝見するたびに味わう。今まで宇宙に存在しなかった作品を次々と生み出す彼らをいつも尊敬している。

藤原彩人個展「空の景色と空な心/Scenery of The Sky and Vacant Mind」
gallery21yo-j 6月23日迄

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