2015年7月13日月曜日

特殊感覚器 多角的に世界を知る


 人間の頭部には、そこだけに備わった特別な感覚器官がある。即ち、物を見る目、嗅ぐ鼻、聞く耳、そして味わう舌のことだ。ちなみに、それ以外の感覚は頭部以外の全身に広がっている。つまり、皮膚感覚の事だ。これらの感覚を通すことで、私たちは自分が世界のどこにいるのかを察知している。高度に連携が取れたこれらの感覚は、物心つく前から正確に情報を伝えていたから、普段生きていてこれらの感覚によって外界を知っているなどとわざわざ気付いて感じ入ることなど、普通はない。

 ところで、なぜ私たちの体にあるこれらの感覚器官、特に頭部の特殊感覚器官はそれぞれが特殊化したものが備わっているのだろうか。それを考えると、互いに長所を活かしてチームを組むことで最善の結果をもたらしていることに気付く。例えば、目が担う視覚。目が捉えているのは太陽から降り注ぐ光である。私たちが「ひかり」と呼ぶものは、太陽から降り注ぐ電磁波のほんの一領域に過ぎない。そのほどよい強さのエネルギー波だけを、目のレンズで1点に集め、それを目の奥の細胞の集まったシート”網膜”に投影する。こうして脳内に再現される目の前の光景は、指先の近さから遙か彼方の山々や水平線まで一瞬で見ることが出来る。獲物を捕らえる準備やハンターから逃げるに十分な距離を離して、周囲を確認することを可能にしている。しかし、目の奥のほとんど点といえるような狭い範囲に集光させるために、目が見ることの出来る範囲は限られている。ピントのあった世界の範囲は意外なほど狭い。だから、私たちはいつも”目の前”の光景しか知らない。自分の背部は視覚的に酷く無防備である。そうであるにも関わらず、普段の生活でそれほど背部に不安感を持たずに済んでいるのは、目以外の感覚器がサポートしているからである。たとえば、耳だ。耳が担っているのは言うまでもなく音で、その実体は空気の振幅に他ならない。つまり、物体の振動が、空気の振幅に伝導し、それが水面に広がる水紋のように周囲に伝わっていく。その波の一部が耳の孔の中へ侵入していき、行き止まりにある鼓膜に当たって共鳴させる。音は光より早く減衰し、伝導速度もずっと遅い。それはつまり、私たちが不穏な音を聞くとき、その事象は我が身の近くで起こっているということを意味している。だから私たちは、音に対してとても敏感にデザインされている。大きな音が起これば、見るより先に体を逃避させる反射も起こる。大きな音で思わず身を縮込ませたことがないだろうか。耳は、目のように情報にピントを合わせることをしないが(かといって、生の外音を聞いているのでもないが)、その分、広範囲の音をいつも拾い上げているので、目で見えない背中側は音に頼っている部分が大きい。自分の周囲から比較的離れた世界の認知には、この2種類、目と耳の働きに多くを依っている。

 残りの2つ、鼻と舌は、摂食と密接である。鼻の穴はかならず口の近くに開口している。そうすることで、本当に口中に入れて良いものかを匂いで判断している。匂いは物質から空気中に放散した化学物質である。ここで、まず良しとされた物だけが口中へ入り、次は舌で更に精査される。外は良くても内は分からないから、歯と顎で砕いていく。ここで判断の元になるのが味だが、それもまた物質から液中へ放出される化学物質などである。口中に入れられた物質から唾液に溶かされたものが判断対象となる。
 鼻が感じる”匂い”はしかし、食べるためだけに使われるのではなく、空気中を漂う臭気からも様々な周辺情報を得ることが出来る。実際、多くの動物は同種同士の連絡に独自の臭気(フェロモン)を利用していることが知られているし、外敵や獲物の匂いをいち早く嗅ぎ分けることも生き残りには重要だろう。
 更に詳細に対象物を確認するには、一般感覚である触覚なども動員される。つまり、”突っついて、触ってみる”のだ。我々は、未知の物に対して、まず遠方から見て、耳を澄まし、安全そうであるなら徐々に近づいていく。手が届く範囲まで来たら、目を見開いてますます細部を見ようとするだろう。この時、嗅覚も駆使しているはずだ。次の段階で、腕を伸ばし指先で軽く突く。そうしながら、対象物と自己の距離を詰めていく。それが、食べられる物であるという判断が下されるまでには、実に多くのそして多角的な判断が事前に下されていたのである。

 自分の周りの物事は、単数の事象から判断はできない。確認事項が少ないほど、確認間違いが起こりやすくなり、それが時に致命的ともなる。だから、何重にも判断過程を設けて、そうして、やっと安全だと判断を下すのである。その幾重にも張られたセーフ・システムが私たちの頭部のかたちの原型でもある。
 
 話は飛ぶが、ネット上にはさまざまなニュースに対する人々の反応が溢れている。それを目にすると、目の前の「ニュース」という少ない情報だけに対して強烈に反応しているものも少なくない。世界の物事は、見えていることだけで成り立っているだろうか。そこには、単一の情報だけでは取り誤るような複雑な構造があるのではないか。事象に対して単純反応を繰り返すのも間違いでもないだろう。しかし、感覚が目と耳を使うことで真実に近づくように、事象の別の側面の可能性を探ることで見えてくる事実も多いはずだろうと、そんなことを考えたりもする。

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