2015年11月8日日曜日

自覚される生の終わり

 死ねば全てが終わる。終わるというのは、生きている側からの感想で、死ねば「終わり」さえ無い。「死にたくない」というのは、本質的には本能の叫びだが、その理由をむりやり言葉すると、「大切な人と別れたくない」、「今までの努力を終わらせたくない」など、生きている現状や継続との断絶を嘆く。しかし、死ねばそれらを惜しむ感情さえ消えるのだと思えば、実は気に病むことでもないと言える。また、不慮の死や苦しみを伴う死であれば、その最後を哀れむ気持ちを残された側の人間は思うわけだが、死んだ側はそういった痛みも全て終わっている。そう考えるとまさに死こそは、生きている我々に必ず訪れる「完璧なる平等」であるように思えてくる。死を迎えた側にすれば、何歳まで生きたか、男だったか女だったか、良い人生だったか否かといった全てが意味を失うだけでなく、「生きた」という事実さえ消えるのだから。

 つらい人生を、苦しみを、痛みを抱えて耐えて生きる人々が多くいる。生きている間の苦しみは真実である。地獄はこの世にあるのだ。
 また同時に、この世界は喜びにも満ちている。期待し、この上ない幸せを感じるそれも真実だ。天国もまたこの世にある。
 結局、私たちにとっての全ては、私たちが生きている間だけの事だ。過去を知り、未来を想う。それも生きている間だけの事。遅かれ早かれ、生きている全ての者に死は平等に降りてくる。生きている側から見る”死に方”は平等に映らないだろう。しかしそれは客観的な”死に方”であって”死”ではない。死はあくまでも平等な無である。

 私たちは、無から生まれ、しばし生かされ、また無となる。結局、皆、死んで無に戻るのだから、産まれたことや生きる事に意味があるのだろうかと時に思う。しかし、生きている間は生きていることに意味がある。生きている間にする事は、生きている者にとって意味がある。だから生きている間に、どう死ぬのかを考えすぎることは本当はあまり意味がないのかもしれない。
 周りを見れば、自分の生きる環境や文化は、かつて「生きた」人々によって構築され積み上げられたもので成り立っている事に気付く。例えば、この言語もしかり。
 それと同様に、いま私たちが生きて活動することが次に生きる者のための何かになっていく。産まれ生きること自体が、この世界を作る基盤なのだ。死ねば私の全ては無となるが、生きた意味は何らかのかたちで世界に意味を与え、それは次へと伝播していくだろう。

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