2013年4月1日月曜日

美しさについて


 美とは何か。漠然と言葉にされ、分かっているようにも感じるが、それを明確に規定することは出来ない。美術館に陳列している「美術作品」と呼ばれる物たちが美ではないかと思われるひともいるかもしれない。確かにそれらの多くは美を目指して作られたのだが、かといってそれらが美であるとは限らない。別に言うなら、美術作品とは、それらを作ったひとが感じた美を、それぞれに再現を試みられた物たちである。
 美は、美しいと感じられる対象のことである。「美しい」は感覚であり、喜びや悲しみといった感情と同様に、何らかの刺激によって心象に”勝手に”湧き起こってくる情動反応である。従って、喜びや悲しみの状況が多くの人が共有できるのと同様に、美しいという感覚は大枠では他人と共有されるものだ。
 美しいと表現される対象は視覚的なものと聴覚的なものが主で、その他の感覚である嗅覚や味覚、触覚で感受されるものには用いられないことは興味深い。
 またさらに、それら特殊感覚的なものの他に、対象の動きに対しても用いられる。ここでの動きとは、主に動物の能動的行為を指すので、「美しい動き」と言うときには、その動きを生み出す判断や身体能力、さらには心の動きまでもがその判断に含まれていると言っていいだろう。

 忙しすぎると笑いを忘れるとも言うが、それは美にも言えることで、精神的な余裕が少ない日々では何かを美しいと感じることも少ない。しかし、「うつくしい」と言語化されないだけで、その感情は常に湧き起こっているに違いない。それは、ふと視界にはいった木々の緑や、空の雲や、すれ違った人の顔、ある人の所作、耳に飛び込むラジオの音楽など様々な刺激から感じ取っている。だから、私たちは常に美に取り囲まれていると言っても良い。
 この、気付かずにいた美がある時から意識下に現れることがある。気にしていなかった対象が美しいことに気付く。その時に自分の心を探ると、きっと以前からそこに美しさを感じ続けていたことが思い返される。何故なのかは分からないが、何かのきっかけで感覚の蓋が開き、美しさが強く意識されるようになるのだ。喜びや悲しみの発端がどこからやってくるのか、つかみ所がないように、湧き起こる美しいという感覚も自身ではどうしようもないのだろう。ある感情もやがて落ち着くように、それも時間と共に変化していく。

 ”美しさ”は主観であり、それを見出す対象に”美”を置く。だから、美はいつも感じる者によって見出される。ただし、美の対象が人間か、それ以外かで大きく違いがある。すなわち、人間以外の美は常に見出されるしかないが、人間は見出されることで”自らが美しい”と自覚することができるということだ。それどころか、人間は自分自身で自己の美を発見すらするだろう。
 勝手に湧き起こる「美しい」に該当する感情は、意識下に上ることで「うつくしい」と言語化される。言語化されることで他者にその感覚、感情を伝えることができる。美しい空を見たら、隣のひとに「美しいですね」と言うし、美しい彫像であってもそれは同じだ。ただ、美しいと感じる対象そのものにはその言葉を向けることは出来ない。もしくは、言っても意味を成さない。ここには、自己の感情を相手に伝えるという本来の言語の使命上、それが果たすことができないことへの無念を感じざるを得ない。自作の彫像に愛の言葉を投げかけ続けたピュグマリオン。神話ではそれを哀れんだ女神アフロディーテにより、彫像はやがて命を宿す。「美しい」はそれを放つ対象にこそ投げかけたいと欲求するのが言語を使う私たちの本能であろう。美の対象がひとであるなら、それは叶えられる。アフロディーテの祝福を待つまでもない。美しいひとには「美しい」と言うべきなのだ。それが「美しい」という言葉の本義に沿った使い方だと思う。


ピュグマリオンとガラテア
バーン・ジョーンズ作
さて、ピュグマリオンが彫像に声をかけ続けていた時、実際にそれを聞いていたのは彫像ではなく女神であった。女神によって彫像から人となることで、ガラテアは始めてピュグマリオンからの賛美の声を聞いたことになる。それまで自らを知らなかったガラテアは、ピュグマリオンという他者によって自己の美を見出され、おそらくはそれを認めただろう。自らが美しいと認識できるのは人だけである。そして自らの美を自覚することで、人は自身の内的な変化を引き起こす。見出された美という感覚による、それ自身の変化というダイナミズムは、美しいという言葉が人に対してのみ働く特殊な作用と言える。
 ここでピュグマリオンは、彫像の外見的な美しさだけを見ていたのではないことに注意すべきだ。彼は、彫像に服を着せ食事を用意した。それは、単なる外見への愛ではなく、そこにひとつのパーソナリティを作り上げていたことを示唆する。彼の中ではガラテアの内面性までもがすでに想定済みであった。もはや動くのを待つばかりであったのだ。

 美しさの意味合いは彫像と人では違う。人の美しさは内面性を伴う。内面性は、その人の所作によって伝達される。所作をどう読み取るのか、そこに言語外のコミュニケーションが存在している。だから、人が持つ美しさはいつも揺らいでいるし、移ろっていくとも言えるだろう。変化し移ろう一時の美の連続とは生命と同義ではなかろうか。人の美しさは、その生命の美しさを反映している。

2013年3月31日日曜日

一枚のコイン 心を物に託す


 「こころのこもった贈り物」とは、コマーシャルのコピーの響きだが、他者へ物を贈るという行為は、確かに、そこに心という無形が込められることで成り立っている。贈り物、ギフト、プレゼント、お土産・・様々な呼び方で贈り物は分けられているが、現在の文明社会では、贈り物の多くが”商品”という形を取る。商品の価値は、値段という数字で計られる。これは、様々な価値観を一度数字に還元して平均化させる私たちの文化に乗っ取っている。この数値化が、贈り物の商品化という形で、私と他者との間の「心」に入り込み、大事な人には高価な物を、そうではない人には安価で・・という図式が作られた。婚約指輪には給料3ヶ月分を、それにはダイアモンドが適しています、となる。”心という無形を物に託して他者へ届ける行為”はこうして、ひとつの型に押し込まれている。

 先日、喫茶店でしばらくおしゃべりをして店を出る際、代金を私が支払った。勿論、大した額ではない。その時は大きなお金しか持っていなかったのを崩したいという理由もあった。店を出ると、相手の人が、一枚のコインを差し出した。一枚の海外のコイン。随分傷だらけでレリーフは一部摩耗している。聞けば、海外旅行の際の物で、旅のお守りとして財布に入れていたと。それは大切なものとお返ししようとしたが、今がきっと持ち主が移る時なのですと言うので頂いた。私はこの時に、内心自分でも驚くほどとても感動してしまって、あの時体が震えていたのは夜風の寒さだけでは無かったと思う。
 一枚の海外のコインには、ほとんど実質的な貨幣価値はない。その意味でそれは、純粋な物に近く、事実そのひとはコインに”旅のお守り”という別の価値観を忍ばせていた。それは信仰に近い。そのような、そのひとにとって特別な意味の込められた物を受け取ったとき、私は確かに、一枚のコインという物質や貨幣という本来的意味ではない、無形でいて大きく暖かいものを受け取ったように感じたのだ。言い換えれば、無形の心を、コインという物に託して私に届けられた。これこそは、贈り物の原点だろう。
 人と人は、言語のみでコミュニケーションを図っているのではないとつくづく思う。実質的価値のないものを贈り、受け取るという行為は、両者が同様にその意味を理解し合っていなければ成り立たないのだ。コインを差し出したときに、その人は500円玉と思って手に取ったからと言ったが、それのみが事実ではないことを私は分かっているし、言ったままを鵜呑みにはしないだろうとその人も判断が働いていたに違いない。
 数字的貨幣価値に依らない贈り物。それは始原的行為であり、それが純粋な形で行われると、心に深い感動をもたらす。記憶をたどれば、お金など関係のない幼少の頃は、その価値観でのやりとりをしていたのだ。いつしか、数字という便利な仕組みに価値判断を押しつけ、心をデジタル化していた。それが当たり前のようになっていた日常に、突如、純粋が流れ込み、嬉しいことには私もそれをまだ受容できた。

 思えば、心という無形を物質に転換して他者に示すという行為は、芸術と同様である。芸術にはそれを受容する相手を必要とする。それは、かつては神であり、王であり、皇帝であった。やがて一般化し、現代では誰でもが鑑賞者と呼ばれる相手になっている。芸術作品は、他者へ示す、心の贈り物なのだ。私の心が始めにあれども、それを相手が受け取ってくれるにはそこに同様の価値観が前提として必要とされる。相手が「誰でも」の現代においても作家はそれを想定して表現しなければならないだろう。感動を届けたいのなら。
 私は彫刻芸術において本質的に重要なのは構造や形態であり、文脈は二の次で良いとさえ思っていた節もあるが、今回のような体験を通すと、発端としての心の動きこそが最も重要であり、「芸術家よ感動せよ」とはまさしくそうであると、改めて感じた。感動に打ち震えるような出会いこそが芸術を推進させるのは間違いない。冷静さの底に、感動という情動の炎をゆらめき続けさせよう。芸術が人間にしか作り得ないのは、それ故である。

 全く不意に手渡された一枚のコインに、私は心を見た。ここには1人と1人の行為であるが、それは人類がいにしえより繰り返してきた心の確認作業でもある。手渡し、意味を感じて理解し、受け取る。そこには全く言語では語り尽くせない情報の往来や、数値化のそぐわない価値が含まれているのに違いない。

2013年3月12日火曜日

彫刻における首


 彫刻には、ひとの頭部のみを主題にしたものが数多くあり、首像と呼ぶ。頭部のみと言っても、その下端はあごの直ぐしたまでのものや頚(くび)の付け根までのもの、さらにその下で丁度首飾りの輪が掛かる辺りまでのものなど様々な程度で終わる。それよりも下で肩まで入ってくると胸像と呼ばれるようになってくる。しかしなぜ、首像なのだろうか。

 もしも、首像をそのまま生きている人のように置き換えたなら、それは、さながら刑場の光景となろうものだが、不思議なことに私たちはそう見ない。これは、私たちが人と対峙したとき、何をもってその人全体として捉えているのかがそのまま表現と鑑賞との対話の中に再現されていると言えよう。基本的に私たちは、相手を認識するのに頚から上の頭部−それも顔面にほとんど集約されるが−だけで事足りるようになっている。人類が体の周りに異物を巻き付けるようになって(つまり衣類)、身体的対話は顔面に集約された。衣類が身体の保護という始原的役割から、装飾による自己表現−それは変身願望と直結する−の場へと変化するのに長い時間は掛からなかったろう。その発展は環境、文化そして個人的趣味という多用な要素を含んで現在も進行している。どんなに衣類が多様性を増やそうとも、私たちは顔を覆うことはない。ある文化圏における顔隠しは「顔は出すもの」という前提があっての行為である。

 顔には、表情を作り出す専門の筋肉がお面のように被さっている。それらは意志で動かせるが、一方で感情と深く結びついていて心情が自動的に”表現される”ように出来ている。心から楽しいときの笑顔と作り笑いは似て非なるものだ。私たちが常に顔面を裸でさらしているのは、この表情を読んでもらうためという理由が大きい。私たちは、相手の表情が読めないときに不安を感じる。逆に、表情を隠したとたんに大胆になる。
 衣類が自分の思う自己を作り上げるキャンバスになると、いっぽうで所詮それは作り上げられたもので信ずるに値しないという判断をも作り出した。相手を知るときに、はじめに目に入るのは衣服に覆われた表面積の大きな体だが、結局次の瞬間には顔を見て判断しているのである。いまや、一個人としての人格を顔が−それが乗っている頭部が−代表しているのである。履歴書では3㎝×4㎝の枠内に頚から上の裸をさらせば、それはあなたの全てを見せたことになる。
 ここまでで通底している概念がある。それがコミュニケーション。表情は”他者に読み取られるため”にある。親にネグレクト(無視虐待)を受けた乳児はやがて泣かず無表情となるというが、読み取る相手がなければ表情も意味を成さない。表情のために”裸という真実”をさらし、相手によって作られる「あなた」という人格は、社会的な存在に他ならない。
 ここで、全身と顔との間にあるギャップが垣間見えてくる。全身は、まぎれもなくあなた自身の物質的存在の基盤である。かたや顔の表情は他者に見られることで印象としてのあなたの存在を作り出す。服を着て頚から上を出す、この当たり前のスタイルは、私たちの心的イメージにおける自己をも2つに分けるものであった。存在としての本質的自己と、社会的な概念的自己とに。

 彫刻に話を戻すが、ひとりの人間を表現するのにも同様に2つの流れがある。すなわち、全身像と首像である。上記から、この両者が必ずしも同列で語れないことが分かるだろう。それは、彫刻の決まりだとか単なるスタイルの違いとかの段階ではなく、ひとの認識が生み出す根の深い違いである。
 彫刻の全身裸体像で具体的な誰かの肖像というのはあまりない。それは意味を成さないばかりか、表現としての焦点を狂わせる(ロダンのヴィクトル・ユゴーは大きな挑戦として映る)。一方で、純粋な没個性的な造形としての首像は作られない。これは本質的に不可能である。没個性的な首像を目指した物もあろうが、それはおそらく生気のない人形の首のようだろう。 
 情報発信の領域である顔面を、彫刻は頭部の構造として認識して表現しなければならない。これは、非常に高度な技−単なる観察力や再現力ではない−を要求される。良い肖像彫刻が少ないのはこの辺りが理由だろう。
  
 結論を言えば首像とはつまり、集約された全身像である。それは社会的存在として、言い換えれば、個性ある存在として表現される。それゆえに本質的にそれらは皆、肖像的な性質を持つ。
 そのひとらしさを残したい。そのために最もピントの合った表現が、首像なのだ。

2013年1月26日土曜日

「人体描写のスキルアップ」講義開催のお知らせ



 来る2月2日の土曜日に朝日カルチャーセンター新宿教室にて、「人体描写のスキルアップ−美術解剖学入門」と題した実践的講義を開講いたしますので、お知らせいたします。
美術の中心である人体描写。その源泉にヌードがあります。裸体描写は芸術にとって永遠のテーマであり、時代ごとに美しい裸体像が探求されています。探求するためにはまず見える必要があります。人体内部の構造を直接的な手がかりとして人体を見ようと試みられたのが16世紀イタリア。それから約500年の間に解剖学は進歩し美術解剖学への応用も変化しています。

 美術解剖学は解剖学を応用して効率的に人体のかたちを見る方法を示します。人体の捉えどころを知れば秩序を持った構造が浮かび上がってきます。骨や筋肉の名前を一つずつ覚えるというものではありません。かたちを作っている理由や姿勢による変形の範囲などを解剖学的な根拠に基づいて説明するものです。美術解剖学を取り入れることで、人体が秩序だって見えるようになるでしょう。

 芸術の本質は表現です。美術解剖学によって、今まで人体形状を探ることに費やしてきた時間を表現活動へと還元することも可能なのです。
この講義は2回で構成されており、初回は基本的な人体の構造と見方をスライド等を用いて講義いたします。2回目は、解説に従って実習をします。実際に描いてみることで理解を定着させましょう。

 人体描写をより高めたい方、人体をモチーフに制作されている方、これから人体を描いてみたいと思っている方など、「人体」と「描写」に深い関心をお持ちの方々の幅広いご参加をお待ちしております。

 当講座は終了しました。

2012年8月20日月曜日

美術解剖学入門レクチャー開講のお知らせ


美術解剖学入門のレクチャーを開催いたします。

 美術愛好家の間でさえ、よく知られているとは言い難い「美術解剖学」というジャンル。
 一方で、美術系の教育機関の多くでこの名前の講義などが行われており、美術系出身者には知名度があります。
 この事実は、美術解剖学が、芸術や造形に関わる専門家に向けて特化した科目であることを示しています。

 また、意外にもその歴史は長く、直接的な起源は15世紀の初期イタリア・ルネサンスまで遡るのです。芸術家自らの欲求から生まれた美術解剖学は、人体や動物を表現するならば必修というものになりました。ルネサンスという時代性が大きく関係していたことも事実ですが、同時代に同じく華開いた解剖学も関係していたのです。
 時が流れ文明開化の頃、極東日本にもついに美術解剖学が上陸しました。憧れの西洋美術を描くためには必修であると考えられました。そして、大学の正規科目に加えられ現在に至っています。

 今回の講義では、「入門」と致しまして、「美術解剖学」の目的と、その起こりから現在までの歴史、そして美術と解剖学の関連を追います。さらに、”美術解剖学的芸術鑑賞法”もご紹介します!

 美術解剖学という”造形家の虎の巻”を紐解くことで、今までと違う側面からより深く美術作品を理解することができるでしょう。なぜならそれは、作家が人体を見つめたのと同じ視点なのですから。

当講座は終了しました。