2013年6月9日日曜日

アントニオ・ロペス展を観て(立体作品を中心に)


 日(2013年6月8日)、アントニオ・ロペス・ガルシア展を観に渋谷東急Bunkamuraへ。

 ルシアの作品は風呂場を描いたものがかつて美術教科書に載っていたように記憶しているが、そのころはいわゆる超写実画と納得しそれ以上の興味は抱かなかった。数年前に何かでレリーフ作品の写真を見た。ブロンズの薄肉で母親とおぼしき女性とその周辺風景が写実的に造形されている。それはごく平凡な風景を上手に再現されて、空間性も感じ取れる。それは普通の風景だが、その空間内にひとりの乳幼児が宙に浮いているのだ。母親は跪き乳幼児を仰ぎ見ている。この作品を見たときは、何か総毛立つような、この母親が目にした「いるはずのない乳幼児」を私も計らずして目撃してしまったような、アクシデンタルな感覚を覚えた。その作家もガルシアだったのだが、このレリーフ作家とかつての風呂場の画家が同一人物であることをその時は知らなかった。
 実的な風景に、非現実性を織り交ぜることは芸術に限らず”表現”の得意とすることだが、ガルシアのレリーフから感じられるものは、「ほら、ここが”異常点”ですよ」と主張してくる類のシュール・レアリズムやフィクション・ムービーとは違って、日常的現実性のなかに突如として紛れ込んでくる異常性なのだ。なので、かの母親が目撃した乳幼児は、単なる幻影や見間違えに過ぎないのかもしれないという不確定さをはらんでいる。そうであるのに、第三者である私(鑑賞者)も確かにそれを目撃してしまったことで作中の母親と経験の共有することになってしまった。
「誰も信じてくれないかもしれないけど、私は信じますよ。私にも確かに見えたんです。」

 ルシアの個展は日本では(そして東洋でも)今回が初だと言うから、これだけまとめて長期的な仕事を幅広く見た日本人もいままであまりいなかったのだろう。私も上で書いた以外に幾つかレリーフ作品をネットで見た程度だった。油画やデッサンなど平面が多いが、従来の絵画のように描ききったものばかりではなく、制作途中のように見えるものも多くある。作家がそこで良しとしたので完成なのだろう。芸術には”未完の効果”というものがあり、彼もそれを応用している。
 同展のポスターなどでは有名な景観図(グラン・ビア)やモノクロ写真のような肖像画(マリアの肖像)が選ばれていたが、私はレリーフや彫刻作品を楽しみにしていた。入場すると間もなく小さな丸彫り彫刻『見上げるマリア』があって、その愛らしさは勿論、造形手技にすっかり満足して、しばらく色んな角度から楽しんだ。一歳ほどの乳幼児が立ち上がり見上げている。視線の先は親に違いない。両手は少し前方へ向けられている。やっと立ち上がれた喜びと、どうしようも出来ない不安から親に抱きかかえられるための用意に入っているのが、力んだ四肢から感じ取れる。丸い頭部と線要素の四肢と胴体、そして立方体の土台が組み合うことで生まれる構成も心地よい。眺めているうちにこの子を抱え上げたい衝動に何度も駆られた。丸い頭もなでたかった。私からすると、空間中に確かに存在して立ち上がっているこの作品の存在感は強いものがあるのだが、多くの鑑賞者は壁の平面作品に多くの注意を裂いているように見えた。大人の注目を得られない幼児は寂しげであった。

 ぐ近くには、この子の母親である女性の金彩色の胸像(マリの胸像)があった。控えめだが憂えた表情に信仰性を見る。側面から見ると顔面部に対して後頭部の量が控えめだった。右耳のうしろの胸鎖乳突筋の緊張が下顎の量とつながって、耳から首への輪郭線を直線的にしていた。こういうラインは実物観察の証だろう。顔も決して無機質な左右対称ではなく、むしろ大胆に動勢が表現されていた。

 ローイングを盛んに褒め称える男性たちのささやきを耳にしながら、平面作品を見通していくと、ブロンズレリーフ(食品貯蔵庫)が掲げられていた。静物画を薄肉彫りにしたもの。シャープさ、空間性はあまり高くない。60年作なので初期のものか。
 その少し先に、レリーフ作品のハイライトとなるものが掲げられていた。『眠る女(夢)』は上記作の3年後のものだが薄肉木彫レリーフで彩色されている。会場のライティングも調節されているので、一見では平面絵画にも見える。しかし、それにしては陰がリアルで近づくと凹凸に気付くというわけだ。この視覚的幻惑感にすっかり感心した鑑賞者たちが足を止め、いったいこの立体的空間感は何かと視線をさまよわせていた。
 私は最近になって、レリーフという表現形態に再注目している。これは絵画と彫刻の狭間にあると言えるが、求められる技法はどちらとも微妙に違う。正確に言うなら絵画と彫刻の技法に加えて、レリーフ独自の技法も求められる。レリーフは決して新しい表現ではなく、むしろ丸彫りの彫刻より古いことは古代エジプトやオリエントを思い起こせば分かる。そして、これら古典も往時は彩色を施されていた。

 の展示室へ続くと、実物より大きめに見える全身裸体像の男女が立っていた。肌色のむらのある彩色。目には義眼。脇の壁に制作中の作家と作品の写真が掲げられていたが、その白黒写真では作品が塑像もしくは蝋に見えた。どちらも太いアングル(支え棒)が脇から差し込まれていた。塑像原型を木彫に写したのかもしれない。長い年月をかけ、複数のモデルを参考にした”普遍的人体像”であるという。しかしそれは古代ギリシアが求めたものとは違い、俗的な今を生きる中年男女だ。男性は片足重心で立ち、古代よりのフォーマットであるコントラポスト姿勢を思わせるが、その揺らぎが作る重心の波は骨盤部で立ち消える。そこには論理的に言える動勢の繋がりが消え、古代彫刻に理想を見出す者(つまり私)に不安を与えるのだが、実際の人体を観察するとそれらが曖昧であることも事実であり、こうすることで古典的理想化から現代的現実感への移行に成功しているとも言えるのだろう。

ころで、これら2体の彫像は壁に背を向けるかたちで設置されていたが、私はこれを残念に思う。背中を見ようにも脇からのぞき込むほか無く、そこにはライトも当てられないため形を追うことは出来なかった。しかし、そういった鑑賞上の不満は個人的な小さなものだ。本質的なのは”立像を壁際に置く”ことで、これらの作品は明確に「物」として扱われていたことだ。それらはもはやショー・ウィンドゥのマネキンであった。勿論、空間の制限等さまざまな理由からそこが選ばれたには違いないだろうが、作品は”非作品”ではない。彫刻はどこに置かれても同様の意味合いを放つほど”鈍い”表現媒体ではないのだ。絵画のように額縁の中で擬似的に作られた空間に守られていない彫刻作品は、それを取り巻く空間がどうであるかに非常にセンシティヴである。もし、これらの作品が空間の中央に立っていたなら、その存在感により多く鑑賞者が足を止め回りを巡って楽しんだことだろう。
 の壁に、この彫刻のためと思われる大きな全身デッサンが掛けられていた。それらは胴体を中心に描き込まれ四肢は曖昧である。同彫刻も脚の作り込みが胴体に比べて弱く見える。実際、脚の股関節から膝関節までの大腿部と、膝関節から足首までの下腿部は形態の視覚的は引っ掛かりが少なく、他の部位の比べて”退屈”である。そのため、古典では実際よりも筋の起伏を強調して陰影を出しているが、ガルシアは現代的現実感のためにそれがないのだろう。

じ展示室内に、ブロンズの等身男性が仰向けに寝た作品『横たわる男』がある。超写実だが、これは型からの起こしを感じさせる。つまり、実際の人体モデルに石膏などを振り掛けてその印象を取ったのではないだろうか。それをもとに多少手を加えたのだと思う。脇から下行する胸腹壁静脈や下腿の大伏在静脈など細かく再現されていた。

展示順で見ると最後に女性半身像(女の像《イヴ》)がある。肌色彩色木彫で原型は石膏とのこと。頭部には髪を多うキャップを被っている。それは競泳用キャップを思わせる。

 後の展示室の彫刻たちを見て、違和感を覚えた部位がある。それは目だ。男と女の立像には義眼がはめ込まれていたので視覚的な生命感があった。それは良い。仰向けの男性と女性半身像はどちらも目を開けている。ところが”生気”がない。正しく言うなら、生きた人間が目を開けている顔をしていない。仰向けの男性像は型起こしではないかと上に書いたが、そう強く思わせた理由の一つがこの目であった。それは女性半身像も同様である。生体から顔面部の型を起こすときは、当然ながら目を瞑った状態になるので、型から起こした閉眼状態の顔面に手を加えて”開眼させる”のである。この際、単純に上まぶたの中心に削り落としてアイラインを整形することで目を開けると、必ず違和感ある顔になる。まぶたを閉じるには、目の周りの皮膚内に埋もれている、目を同心円状の取り囲む眼輪筋を収縮させている。この筋の影響範囲は上まぶたを超えて広がっているので、目を閉じると周囲の皮膚を目頭(めがしら)よりに”思いの外”引き寄せる。これらの作品は、目を瞑った状態の周囲構造に開眼した目を付け加えたので、違和感を生じている可能性がある。思えば、半身女性像の競泳用キャップも頭部型取りにはよく用いられる。

 気の薄い目の表現はしかし、ガルシアの肖像画のいくつかでも感じた。それらは写真から起こされた絵であった。ガルシアの作品の多くを覆う、対象に対する遠い距離感は、観察と作品の間に写真や型取りといった客観的で無感情な媒体を挟み込むことで生まれているのではないだろうか。会場内やカタログには、ガルシアがモチーフの前で実際にカンバスを広げている写真がいくつも展示されており、それだけを見るなら作品たちは彼の肉眼観察のみから生み出されたように思わされる。しかし、実際の作品を見ると、そういったものと写真をもとに再構成したものとの2種類があるように感じられる。
 90年代に描かれた植物画は、白いカンバスの四隅などにメモリや数値、画面分割線などが描き込まれている。それは多少作為も感じさせるが、彼の作画に対するスタンスを表してもいる。ガルシアに共通するのは写実であり、写実は技法において主観の除去を含む。彫刻の制作過程において、生体からの型取りが行われていたとしても、それは彼の信念に沿ったもので、なんら違和感を生じさせるものではない。

 体作品ばかりを見てきたが、平面作品では『室内の人物』に”やられた”。これは心理的不安や恐怖を与える作品だ。室内の左隅は光が当たらず暗い。右のドアは開いており3人が立っている。女性は明らかに不安や悲しみのような感情を表している。彼らは外からやってきてドアを開け廊下から室内を見ているのだ。ドアの隣に鏡が掛けられ、画面手前、つまり私たち鑑賞者側の空間が写し込まれている。それを見ると手前の壁には女性物の衣服が掛けられている。廊下から不安げに見る女性の視線の先はこの衣装に向けられている。この鏡のすぐ手前の暗がりに若い女性がいる。胸までしか無く、視線は鑑賞者へ向けられている。
この女性の顔は、ガルシアの妻マリアであることは同展を見ていれば分かるのだが、明らかにこれは”いるはずのない人物”としてここにいる。廊下にいる3人にはこの女性は見えていない。そして、”いないはずの女性”は私たちへ目を向けている。彼女は私たちを認識しているのだ。しかし、見られている私たちはこの空間に存在していないことは鏡に誰も映っていないことが証明している。
 いないはずの女性は、その視線によって絵画空間と私たちとを結びつけている。しかも、絵画空間においては私たちは”いないはずの女性”側に位置している!。こんな、鑑賞者を不安にさせる罠が仕掛けられた絵画はあまりないだろう。この女性が霊だと言うなら、あなたもまたそうだということになるのだから。
 ガルシアのこの絵に感じられる、変容した現実感(つまりシュール・レアリズム)は、私がかつて見た幼児が浮かぶレリーフと同質のものだ。彼は決定的に全てを変容させない。勘違いや気の迷いや少し疲れている事による見間違えといったさりげなさに”異質”を溶け込ませる。しかし、私たちにはそれこそが異質のリアリティだろう。


ころで、会場内の鑑賞者を見ていると、彫刻作品の鑑賞時間は明らかに絵画作品のそれより短い。彫刻作品の”見方”が分からないのではないかと想像する。だからこそ、展示側がマネキンのように男女像を置くのはより良くないと思ったのだ。
 彫刻の見方は、絵画のそれとは違う部分が多い。そして、深く、楽しい。商業的に見ても、彫刻はいつも苦戦を強いられる。彫刻界にいるひとは、鑑賞者を育てるという役割も担っていかなければならないのかもしれない。古代ギリシアやローマの彫刻たちの多くは鋳つぶされたり焼いて石灰にされて消えていったという。”良い物を作っていれば気付いてもらえるよ”ということはないと思う。
 ントニオ・ロペス追記

2013年5月23日木曜日

告知 「人体描写のスキルアップ - 美術解剖学入門」開講のお知らせ


 少々早いですが、夏の盛りから暑さが落ち着き始めるころにかけて、朝日カルチャーセンター新宿教室において実技講座を開講致しますので、お知らせ致します。

 本講座は、講義と実習を通して、人体を構造的な視点から見ることで、人体描写技量を向上させることを目的としています。美術解剖学は、皮膚の内側にある骨や筋のかたちと構造についての知識によって、人体を立体的に捉えられるようにするための方法論です。

 人体をどのように見ていますか。芸術表現のモチーフとして人体は究極に身近な対象です。なぜなら、その対象の形態はあなた自身とほとんど全く同じなのですから。
 しかしながら、人体表現の難易度の高さは誰もが認めるものでもあります。人体表現が歴史的に見ても様々な変化を見せるのは、このような”近くて遠い”距離感も影響しているのでしょう。
 

 毎朝、目覚めと共にまぶたを開くと、当たり前のように見慣れた室内光景が目に飛び込みます。日々の生活で、目に飛び込む様々な色彩や形態を”苦労して”認識しているという方は極少ないでしょう。テレビをオンにすると映る番組のようにそれは苦もなく脳裏に再現されます。ところが、当たり前に見えているそれらの光景を紙に写し取ろうとしてみると、これが全く出来ない事に驚かれるはずです。テレビ画面に紙を押し当てて透けた画面をトレースするようにはいかないのです。これは、私たちの視覚認識がカメラがフィルムや素子に光線を投射するような単純な平面化に依っていないことを示しています。私たちが「当たり前」と信じ切っている目の前の風景は、実は脳内での非常に複雑で高度な解析の末に”再現された”意識世界とも言えるものなのです。
 このような意識的に再現された対象を表現しようとするには、少なくとも2つの手順が必要です。まずひとつは、手業(てわざ)とも言いますが、これは手の筋肉を意識的に詳細にコントロール出来るようにすることを意味します。すなわち、「箸が上手に使える」や「綺麗な字を書く」といった列に並ぶものです。スポーツなら「正しいフォームで走れる」や「スキーでパラレルが出来る」、音楽なら「楽譜が読めてピアノがひける」と言ったところでしょう。勿論、これらが完璧で無ければならないという意味ではなく、ともかくやりたいことをこなすための始めの技術力を持つということです。
 この手業は、繰り返しの訓練で誰でもある程度まで上達するものです。ところが、手業の限界は思いのほか早くに見えてくるのです。その次の段階へ進むために必要な物こそが、二つめの手順であり、すなわち、”対象の見方”です。そして、人体表現においての”対象の見方”を強力に推進するものこそが美術解剖学なのです。始めに挙げた手業を「手の技術」と言い換えるなら、美術解剖学は「見る技術」とも言えましょう。

 ところで、私たちの「見る」行為は、カメラとは違って、能動的な行為です。そのために、”知らないために見えない”という現象が起きます。こういった脳による情報削除は処理を軽くするために恐らく重要なもので、私たちが人体を見るときにも通常は非常に多くの情報が捨てられているはずです。絵を描き慣れない人はそこに手業の欠如が加わるのですから描けなくて当然なのです。


 さて、美術解剖学は「人体を見る技術」だと既に述べましたが、人体表現を目的とした人体の見方でもっとも基本的なのは、裸体を観察することでしょう。この時に視覚が頼りにするのは、外見を規定するものとして身体の輪郭を、また、輪郭より内側の要素を捉えるには陰影が用いられます。しかし、視点や姿勢の変化に伴って刻々と形状を変える人体を、輪郭や陰影の表面性だけで追うことは必ずしも効率的ではありません。そこで、人体内部構造とその形状理解をそこに付け加えるのです。それは皮膚の一層内側にある筋の走行やそれらが付着する骨の形状に加えて、運動に影響する変形の範囲や関節の可動域など、ポーズによる外見の変形に根拠を与えてくれます。そうして、人体形状への理解を深めることで、やがて目は皮膚に隠された構造を見抜き、表現される作品には形状の説得力が加わるでしょう。イタリアルネサンスのマスターピースの人体表現の多くは、このような方法論の下に生まれたことも付け加えておきます。

 今回の講座は、初回は講義形式で後の2回はヌード・モデルの観察とデッサンの全3回で構成されています。初回では、人体の内部構造についての基本的な知識や、構造の分け方についてなどを知ります。2回目は女性ヌード・モデルの観察を通して、初回の知識の再確認や姿勢の変化に伴う外見の変化とその影響範囲などを確認していきます。最終回はこれまでの知識を参考に女性ヌード・モデルを固定ポーズで描写していきます。最後に時間が許せば描かれた絵を美術解剖学的な視点で講評します。

 日本において、美術解剖学的な方法論に沿ったヌード・セッションはまだこれから発展しうるものです。人体描写の向上を図ろうと努力されている方、身体の構造に興味を抱いている方、芸術における裸体表現を更に深く堪能したいと思われている方など、芸術と人体に興味をお持ちの方であれば、どなたでも楽しんで頂けると思います。
 文字や文章が小説家のためだけにあるのではないように、デッサンは画家だけのものではなく、理解を深めるための方法のひとつなのです。”手業”に自信のある方もない方も、ペンと紙で手を動かしながら、共に人体形状の理解を深めましょう。


当講座は終了しました。

2013年4月1日月曜日

美しさについて


 美とは何か。漠然と言葉にされ、分かっているようにも感じるが、それを明確に規定することは出来ない。美術館に陳列している「美術作品」と呼ばれる物たちが美ではないかと思われるひともいるかもしれない。確かにそれらの多くは美を目指して作られたのだが、かといってそれらが美であるとは限らない。別に言うなら、美術作品とは、それらを作ったひとが感じた美を、それぞれに再現を試みられた物たちである。
 美は、美しいと感じられる対象のことである。「美しい」は感覚であり、喜びや悲しみといった感情と同様に、何らかの刺激によって心象に”勝手に”湧き起こってくる情動反応である。従って、喜びや悲しみの状況が多くの人が共有できるのと同様に、美しいという感覚は大枠では他人と共有されるものだ。
 美しいと表現される対象は視覚的なものと聴覚的なものが主で、その他の感覚である嗅覚や味覚、触覚で感受されるものには用いられないことは興味深い。
 またさらに、それら特殊感覚的なものの他に、対象の動きに対しても用いられる。ここでの動きとは、主に動物の能動的行為を指すので、「美しい動き」と言うときには、その動きを生み出す判断や身体能力、さらには心の動きまでもがその判断に含まれていると言っていいだろう。

 忙しすぎると笑いを忘れるとも言うが、それは美にも言えることで、精神的な余裕が少ない日々では何かを美しいと感じることも少ない。しかし、「うつくしい」と言語化されないだけで、その感情は常に湧き起こっているに違いない。それは、ふと視界にはいった木々の緑や、空の雲や、すれ違った人の顔、ある人の所作、耳に飛び込むラジオの音楽など様々な刺激から感じ取っている。だから、私たちは常に美に取り囲まれていると言っても良い。
 この、気付かずにいた美がある時から意識下に現れることがある。気にしていなかった対象が美しいことに気付く。その時に自分の心を探ると、きっと以前からそこに美しさを感じ続けていたことが思い返される。何故なのかは分からないが、何かのきっかけで感覚の蓋が開き、美しさが強く意識されるようになるのだ。喜びや悲しみの発端がどこからやってくるのか、つかみ所がないように、湧き起こる美しいという感覚も自身ではどうしようもないのだろう。ある感情もやがて落ち着くように、それも時間と共に変化していく。

 ”美しさ”は主観であり、それを見出す対象に”美”を置く。だから、美はいつも感じる者によって見出される。ただし、美の対象が人間か、それ以外かで大きく違いがある。すなわち、人間以外の美は常に見出されるしかないが、人間は見出されることで”自らが美しい”と自覚することができるということだ。それどころか、人間は自分自身で自己の美を発見すらするだろう。
 勝手に湧き起こる「美しい」に該当する感情は、意識下に上ることで「うつくしい」と言語化される。言語化されることで他者にその感覚、感情を伝えることができる。美しい空を見たら、隣のひとに「美しいですね」と言うし、美しい彫像であってもそれは同じだ。ただ、美しいと感じる対象そのものにはその言葉を向けることは出来ない。もしくは、言っても意味を成さない。ここには、自己の感情を相手に伝えるという本来の言語の使命上、それが果たすことができないことへの無念を感じざるを得ない。自作の彫像に愛の言葉を投げかけ続けたピュグマリオン。神話ではそれを哀れんだ女神アフロディーテにより、彫像はやがて命を宿す。「美しい」はそれを放つ対象にこそ投げかけたいと欲求するのが言語を使う私たちの本能であろう。美の対象がひとであるなら、それは叶えられる。アフロディーテの祝福を待つまでもない。美しいひとには「美しい」と言うべきなのだ。それが「美しい」という言葉の本義に沿った使い方だと思う。


ピュグマリオンとガラテア
バーン・ジョーンズ作
さて、ピュグマリオンが彫像に声をかけ続けていた時、実際にそれを聞いていたのは彫像ではなく女神であった。女神によって彫像から人となることで、ガラテアは始めてピュグマリオンからの賛美の声を聞いたことになる。それまで自らを知らなかったガラテアは、ピュグマリオンという他者によって自己の美を見出され、おそらくはそれを認めただろう。自らが美しいと認識できるのは人だけである。そして自らの美を自覚することで、人は自身の内的な変化を引き起こす。見出された美という感覚による、それ自身の変化というダイナミズムは、美しいという言葉が人に対してのみ働く特殊な作用と言える。
 ここでピュグマリオンは、彫像の外見的な美しさだけを見ていたのではないことに注意すべきだ。彼は、彫像に服を着せ食事を用意した。それは、単なる外見への愛ではなく、そこにひとつのパーソナリティを作り上げていたことを示唆する。彼の中ではガラテアの内面性までもがすでに想定済みであった。もはや動くのを待つばかりであったのだ。

 美しさの意味合いは彫像と人では違う。人の美しさは内面性を伴う。内面性は、その人の所作によって伝達される。所作をどう読み取るのか、そこに言語外のコミュニケーションが存在している。だから、人が持つ美しさはいつも揺らいでいるし、移ろっていくとも言えるだろう。変化し移ろう一時の美の連続とは生命と同義ではなかろうか。人の美しさは、その生命の美しさを反映している。

2013年3月31日日曜日

一枚のコイン 心を物に託す


 「こころのこもった贈り物」とは、コマーシャルのコピーの響きだが、他者へ物を贈るという行為は、確かに、そこに心という無形が込められることで成り立っている。贈り物、ギフト、プレゼント、お土産・・様々な呼び方で贈り物は分けられているが、現在の文明社会では、贈り物の多くが”商品”という形を取る。商品の価値は、値段という数字で計られる。これは、様々な価値観を一度数字に還元して平均化させる私たちの文化に乗っ取っている。この数値化が、贈り物の商品化という形で、私と他者との間の「心」に入り込み、大事な人には高価な物を、そうではない人には安価で・・という図式が作られた。婚約指輪には給料3ヶ月分を、それにはダイアモンドが適しています、となる。”心という無形を物に託して他者へ届ける行為”はこうして、ひとつの型に押し込まれている。

 先日、喫茶店でしばらくおしゃべりをして店を出る際、代金を私が支払った。勿論、大した額ではない。その時は大きなお金しか持っていなかったのを崩したいという理由もあった。店を出ると、相手の人が、一枚のコインを差し出した。一枚の海外のコイン。随分傷だらけでレリーフは一部摩耗している。聞けば、海外旅行の際の物で、旅のお守りとして財布に入れていたと。それは大切なものとお返ししようとしたが、今がきっと持ち主が移る時なのですと言うので頂いた。私はこの時に、内心自分でも驚くほどとても感動してしまって、あの時体が震えていたのは夜風の寒さだけでは無かったと思う。
 一枚の海外のコインには、ほとんど実質的な貨幣価値はない。その意味でそれは、純粋な物に近く、事実そのひとはコインに”旅のお守り”という別の価値観を忍ばせていた。それは信仰に近い。そのような、そのひとにとって特別な意味の込められた物を受け取ったとき、私は確かに、一枚のコインという物質や貨幣という本来的意味ではない、無形でいて大きく暖かいものを受け取ったように感じたのだ。言い換えれば、無形の心を、コインという物に託して私に届けられた。これこそは、贈り物の原点だろう。
 人と人は、言語のみでコミュニケーションを図っているのではないとつくづく思う。実質的価値のないものを贈り、受け取るという行為は、両者が同様にその意味を理解し合っていなければ成り立たないのだ。コインを差し出したときに、その人は500円玉と思って手に取ったからと言ったが、それのみが事実ではないことを私は分かっているし、言ったままを鵜呑みにはしないだろうとその人も判断が働いていたに違いない。
 数字的貨幣価値に依らない贈り物。それは始原的行為であり、それが純粋な形で行われると、心に深い感動をもたらす。記憶をたどれば、お金など関係のない幼少の頃は、その価値観でのやりとりをしていたのだ。いつしか、数字という便利な仕組みに価値判断を押しつけ、心をデジタル化していた。それが当たり前のようになっていた日常に、突如、純粋が流れ込み、嬉しいことには私もそれをまだ受容できた。

 思えば、心という無形を物質に転換して他者に示すという行為は、芸術と同様である。芸術にはそれを受容する相手を必要とする。それは、かつては神であり、王であり、皇帝であった。やがて一般化し、現代では誰でもが鑑賞者と呼ばれる相手になっている。芸術作品は、他者へ示す、心の贈り物なのだ。私の心が始めにあれども、それを相手が受け取ってくれるにはそこに同様の価値観が前提として必要とされる。相手が「誰でも」の現代においても作家はそれを想定して表現しなければならないだろう。感動を届けたいのなら。
 私は彫刻芸術において本質的に重要なのは構造や形態であり、文脈は二の次で良いとさえ思っていた節もあるが、今回のような体験を通すと、発端としての心の動きこそが最も重要であり、「芸術家よ感動せよ」とはまさしくそうであると、改めて感じた。感動に打ち震えるような出会いこそが芸術を推進させるのは間違いない。冷静さの底に、感動という情動の炎をゆらめき続けさせよう。芸術が人間にしか作り得ないのは、それ故である。

 全く不意に手渡された一枚のコインに、私は心を見た。ここには1人と1人の行為であるが、それは人類がいにしえより繰り返してきた心の確認作業でもある。手渡し、意味を感じて理解し、受け取る。そこには全く言語では語り尽くせない情報の往来や、数値化のそぐわない価値が含まれているのに違いない。

2013年3月12日火曜日

彫刻における首


 彫刻には、ひとの頭部のみを主題にしたものが数多くあり、首像と呼ぶ。頭部のみと言っても、その下端はあごの直ぐしたまでのものや頚(くび)の付け根までのもの、さらにその下で丁度首飾りの輪が掛かる辺りまでのものなど様々な程度で終わる。それよりも下で肩まで入ってくると胸像と呼ばれるようになってくる。しかしなぜ、首像なのだろうか。

 もしも、首像をそのまま生きている人のように置き換えたなら、それは、さながら刑場の光景となろうものだが、不思議なことに私たちはそう見ない。これは、私たちが人と対峙したとき、何をもってその人全体として捉えているのかがそのまま表現と鑑賞との対話の中に再現されていると言えよう。基本的に私たちは、相手を認識するのに頚から上の頭部−それも顔面にほとんど集約されるが−だけで事足りるようになっている。人類が体の周りに異物を巻き付けるようになって(つまり衣類)、身体的対話は顔面に集約された。衣類が身体の保護という始原的役割から、装飾による自己表現−それは変身願望と直結する−の場へと変化するのに長い時間は掛からなかったろう。その発展は環境、文化そして個人的趣味という多用な要素を含んで現在も進行している。どんなに衣類が多様性を増やそうとも、私たちは顔を覆うことはない。ある文化圏における顔隠しは「顔は出すもの」という前提があっての行為である。

 顔には、表情を作り出す専門の筋肉がお面のように被さっている。それらは意志で動かせるが、一方で感情と深く結びついていて心情が自動的に”表現される”ように出来ている。心から楽しいときの笑顔と作り笑いは似て非なるものだ。私たちが常に顔面を裸でさらしているのは、この表情を読んでもらうためという理由が大きい。私たちは、相手の表情が読めないときに不安を感じる。逆に、表情を隠したとたんに大胆になる。
 衣類が自分の思う自己を作り上げるキャンバスになると、いっぽうで所詮それは作り上げられたもので信ずるに値しないという判断をも作り出した。相手を知るときに、はじめに目に入るのは衣服に覆われた表面積の大きな体だが、結局次の瞬間には顔を見て判断しているのである。いまや、一個人としての人格を顔が−それが乗っている頭部が−代表しているのである。履歴書では3㎝×4㎝の枠内に頚から上の裸をさらせば、それはあなたの全てを見せたことになる。
 ここまでで通底している概念がある。それがコミュニケーション。表情は”他者に読み取られるため”にある。親にネグレクト(無視虐待)を受けた乳児はやがて泣かず無表情となるというが、読み取る相手がなければ表情も意味を成さない。表情のために”裸という真実”をさらし、相手によって作られる「あなた」という人格は、社会的な存在に他ならない。
 ここで、全身と顔との間にあるギャップが垣間見えてくる。全身は、まぎれもなくあなた自身の物質的存在の基盤である。かたや顔の表情は他者に見られることで印象としてのあなたの存在を作り出す。服を着て頚から上を出す、この当たり前のスタイルは、私たちの心的イメージにおける自己をも2つに分けるものであった。存在としての本質的自己と、社会的な概念的自己とに。

 彫刻に話を戻すが、ひとりの人間を表現するのにも同様に2つの流れがある。すなわち、全身像と首像である。上記から、この両者が必ずしも同列で語れないことが分かるだろう。それは、彫刻の決まりだとか単なるスタイルの違いとかの段階ではなく、ひとの認識が生み出す根の深い違いである。
 彫刻の全身裸体像で具体的な誰かの肖像というのはあまりない。それは意味を成さないばかりか、表現としての焦点を狂わせる(ロダンのヴィクトル・ユゴーは大きな挑戦として映る)。一方で、純粋な没個性的な造形としての首像は作られない。これは本質的に不可能である。没個性的な首像を目指した物もあろうが、それはおそらく生気のない人形の首のようだろう。 
 情報発信の領域である顔面を、彫刻は頭部の構造として認識して表現しなければならない。これは、非常に高度な技−単なる観察力や再現力ではない−を要求される。良い肖像彫刻が少ないのはこの辺りが理由だろう。
  
 結論を言えば首像とはつまり、集約された全身像である。それは社会的存在として、言い換えれば、個性ある存在として表現される。それゆえに本質的にそれらは皆、肖像的な性質を持つ。
 そのひとらしさを残したい。そのために最もピントの合った表現が、首像なのだ。