2009年2月15日日曜日

芸術家は職業、趣味に非ず

名のよく知られた芸術家を、人々は敬う。一方で、全く知られていないが、制作を続けている作家を社会からの脱落者のように見る。「芸術、芸術と言ったって、それで食べられなくて、結局やっていけないなら意味がない。生活の為にきちんと仕事をして、週末にでも集中して制作をするのが正しい。」と言う人もいて、正しく聞こえて納得したくもなる。しかしそれは、芸術を追求している人に言うには正しい言葉ではない。むしろ、趣味の延長として続けていきたいひとに言うべきものだ。

芸術は、芸術家からしか生まれ得ない。こんな、当たり前のことに聞こえることが一般には、理解されていない。職業選択の自由が当然のことになっている現在では、一つの仕事が失敗しても、全く違う職種へ移ることもできる。「芸術は週末に。」と言う人は、芸術は、趣味のようなものか、もしくは職業のようなものだと考えているのだろう。だから、「芸術職業で生活できないなら転職して、趣味として週末にすればよい」となる。芸術は職業ではない。芸術は、思想であり、その人(芸術家)の一生を通して貫かれる生き様でもある。その思想の表現されたものが、芸術作品である。週5日サラリーマンで、ビジネスプロジェクトを抱えプレゼンを考えている人間が、週末だけ芸術家として思想をどれだけ深められると言うのか。そういうのを、アマチュア・アートと呼ぶ。本質的な芸術家、プロフェッショナル・アーティストは手業や技術だけが重要なのではないのだ。ロダンのように粘土を盛ったり、ピカソのような絵を描くことが出来る人間は居るだろう。それだけで、彼らのような芸術家と言えるか。

資本主義では、何でも金という単位で物事がはかられる。皆、それになれてしまって、数字が大きい物がより良いと、本気で信じている。そうなってしまったら、もう自分の頭を使うことがなく、数字だけが真実になってしまう。ここの、数値で価値を断定してしまう仕組みと最も相性が悪いものの一つが芸術だ。使われている材料から価格を算出しようとすれば、ピカソの絵でも、高校生の小遣いで買えるだろう。ロダンの銅像でも大したことはない。銅は安い金属である。つまり、素材で価格は決められない。誰かが、相場価格を決めているのだ。そこから、需要に応じて変動する。相場が決まってしまうと、人々は、作品そのものをもはや見なくなる。「高いから良い」となる。もしくは、「高いピカソだから良い」と。価格で価値を計ることが当然になった人は、価格が設定されていない物に自分で価値を置くことが出来ない。だから、名の知れない芸術家がいつまでも認められない。価値を決めるのは、ギャラリストら専門家だと信じている。さらにひどいことに、今や芸術家さえその流れに乗ってしまい、ギャラリストや批評家の目にとまることこそが芸術家として成功する道だと信じて、そのために活動をしているものもいる。それもいいだろう。時代の流れは無視できない。
だが、明確にしておかなくてはいけないと思う。商業的な取引の「商品」として生み出され消費されるこれらの芸術は「コマーシャル・アート」と呼ばれる。確固たる地位を持つ過去の巨匠の芸術は「古典芸術、クラッシック・アート」と呼ばれる。これらの間に明確な壁はなく、両者は時に行き来するものだ。しかし、今を生きる芸術家は、自分がどこに属し何を求めているのかを自覚しなくてはいけない。今、旬のコマーシャル・アート界で成功を収めて雑誌の表紙を飾りたいのか。それとも、芸術的本質を追い求めて地味に研究、制作を続けるのか。そうやって、自己の立ち位置を作家自らが明確にしなければ、現代の複雑化した芸術評価の流れに飲まれて、居場所が分からなくなるだろう。

途中、一般論的になったが、私は、芸術は本質を追わなければ意味がないと思っている。美しさを追うことは一生をかけるに値するものだ。これは宗教に近い感覚なのかもしれない。それを感じてしまうと、それに一生を捧げたくもなるのだ。芸術を見る者、売る者らはともかく、それを創造する者は、まず、自分がどんな芸術を追い求めているのかが決まっていなくては、なにも始まらない。

芸術家は、まず、自らを「芸術家」としなくてはならない。芸術家とは、職業ではなく、生き方のことだ。

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