2009年11月27日金曜日

目で触る 触覚的から視覚的へ

彫刻も絵画も、基本的に私たちは目で見て鑑賞するが、両者には絶対的な違いがあることは明白で、それは絵画はそもそも見るためにあるが、彫刻は見て触れられるというものだ。
彫刻は触れられると言っても、実際に触ることが許される作品は数少ない。しかし、私たちは、目で鑑賞するだけでも作品に触れる感覚を実感することが出来る。これは、視覚と触覚が連動しているからだ。手の動きと視覚を高度に連動させることが出来る動物は、人類の他にはチンパンジーなど数少ない。人類の進化の過程で、私たちは様々な物を見て、それを触って確認することを繰り返してきた。今や、実際に触れなくともガラスのツルツルした感じやスポンジの柔らかさなど、物性をまざまざと指先に思い起こすことが出来る。この、視覚と触覚のリンクはしかし、個人が実際に経験した視覚―触覚リンクしか働かない。触れたことがない未知の物質を目の前にしても、その触覚感が現実味を帯びることはなく、代わりにそれに似た感覚を呼び起こさせて対応させるしかない。つまり、視覚で触覚を「リアルに」感じる為には、私たちは見て触るを事前に実体験していなくてはならない。何でもかんでも触りまくる幼児期の行動は、そのリストを急速に作り上げている過程なのかもしれない。これは味覚にもあてはまるだろう。

つまり、彫刻を鑑賞する時には視覚的経験に加えて、触覚的経験も導入されており、これが「彫刻は目で触れて鑑賞する」と言われる所以なのだろう。逆に言えば、彫刻を鑑賞するには触覚的感覚も要求されるということであり、漫然と眺めるだけで「目で触れ」なければ、その本質的な部分には触れられないということになる。

しかし、この部分で、現代の彫刻には変化が起きているように感じる。それは、触覚的彫刻が少なくなっている、もしくは、視覚的彫刻が主流になりつつあるように見えることだ。
もはや、作家が彫刻に触覚性を求めておらず、絵画のように視覚でのみ鑑賞することを前提としているような作品がある。これらは時に、立体絵画のようである。
触れるには対象の物性が必ず関係する。彫刻は、その歴史において素材の持つ物性から切り離せない領域だった。それは現在でも「石彫」、「木彫」などという素材でのカテゴライズが残っていることからも分かる。しかし、触覚性が希薄になると、石や木の物質感も自ずと希薄になる。これは、近代になり合成樹脂が広く素材として使われるようになったのも関係しているかもしれない。軽くて丈夫な合成樹脂は確かに彫刻家を素材から自由にした。一方で、彫刻の本質的要素だった触覚性を希薄にすることを後押しした。今では、「ブロンズ着色のFRP」は当たり前である。

90年代から急速に発展した3DCGは、さらに彫刻の次の段階を見せようとしている。
膨大な情報量を必要とする3DCGは、家庭用PCの高性能化に伴い一般的なものになりつつある。コンピュータ・スクリーンの内側で作り出される「彫刻」は、削りくずもなく、なにより重力という地球上の物質の根源的要素が存在していない。また、3DCGには大きさの概念もないので、その制作過程で極端に微細な構造を作ることも出来る。ある一定の数式やアルゴリズムを用いて「人為を介入させずに」造形することも可能である。
この仮想世界は本質的に物質性が存在しない。その意味で3DCGは明らかに絵画に属する物と言えるのだが、一方でNC工作機やプロッタで現実のものにすれば彫刻に属する。
それは、視覚的彫刻との関連性を想起させるものだ。

素材の多様化と情報重視の時代性が、物質性と切り離せないはずの彫刻にも大きな変化をもたらしている。芸術家も時代から離脱して生きることは出来ないが、急速な変化の中にあっても、大きく変わることのない普遍的な芸術性や彫刻的要素までも過去のものとして押し流してはならない。
今であればこそ、本質的な芸術を見つめ、見極めていたいと思う。

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