2010年1月7日木曜日

マッチョ 身体依存時代の思い出


ギリシア時代に作られた人物像は、皆みごとな肉体美を晒している。 理想的な肉体美についても研究されていたそうだから、あの彫刻たちはその解答という意味合いもあるのだろう。その美の基準は、ローマへ引き継がれて、ルネサンスで再発見され現代へと脈々と続いている。アジアでは、それとは違う価値観があったが、近代以降の日本では西洋の肉体美の基準が取り込まれ、今では1つの方向性として当然のように認知されている。

西洋のそれを一言で言えば、男はマッチョである。女もがっしりした骨格に厚い皮下脂肪をまとった表現が多い。筋骨隆々が良いという価値観は美術だけに限ったことではないのは、欧米のメディアに出てくる男性たちを見れば分かる。
なぜ、マッチョが良いのか。最も健康な状態で、強さを象徴しているから。きっとそうだろう。人が作り出す物には理想が具現化されている。

筋肉や骨格を含め、身体は基本的に必要以上の努力をしようとしない。エネルギーを消費したくない、とも言い換えられる。動かなくても生きていけるのなら、その方がいい。実際、そういう進化の道を選んだ生物もいる。
だが、私たちは自らが運動して生を繋げる道を選んだ者たちの末裔である。体も動き続ける事を前提にデザインされている。だから、私たち「動物」にとって、動けなくなることは即ち死を意味していた。人類は社会を生み出したことで、それを克服しているが、単体で放って置かれればやはり生きてはいけない。

筋骨格系は、外部からの負荷がかかると、それに応じて強度が上がる。何も運動しなくても、重力という負荷は常にかかっている。宇宙飛行士は無重力環境に居るために、重力負荷を受けず、その結果筋骨格系が短期間に著しく衰弱してしまう。反対に、肉体を酷使しなければならない環境で生活している民族の肉体は、どれも一様にたくましい。
肉体(筋骨格系)は、そもそも、動くための道具や装置に近いものとも言える。 「たくましさ」とは生活の過酷さから生まれ、後から発見された概念である。社会が安定した頃にそれは見つけ出され、やがて様式になった。もはや、生活の過酷さとは関係なく、「マッチョがいい」となったのだ。

人類は、道具の創造が大きな特徴とされる。実際、道具とは身体の延長であり、道具を充実させることで、生物的な身体は無性格で良くなった。人類の進化の特徴として幼形成熟(ネオテニー)が上げられることがあるが、道具の使用との関連性がそこには在るかもしれない。著しい身体的特性を持つ様々な他の動物(ブタやオオカミやクジラなど)も、その胎児期においては皆似通っている。もし、身体的特性が不必要ならば、それらが発現する以前の状態を維持する形で成長するほうが無駄がない。

道具の発明で、身体的特性がいらなくなった人体の「かたち」。文明の発達と共にさらにその強度も必要なくなり、それ(マッチョ)は鑑賞の対象へと変化した。
毎年、夏が近づくと男性陣は体を鍛えようとムズムズしだす。大人より自然状態に近い子供時代(小中学校)では、知識系男子よりも身体能力系男子が圧倒的に女子にもてる。

高度な身体能力が必要ではなくなった現代においてもマッチョが求められることの根底には、それによって守られてきた遠い過去(身体依存時代)へ記憶の回帰があるのかもしれない。

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