2011年2月16日水曜日

立体の視覚的要素

 私たちの眼前に広がる世界は,全て「量」を持っている.つまり,立体物であるわけだが,脳はどうやってそれらが立体であることを認識しているのだろうか.写真が開発され,目で見ている世界観と近いものが,平面上で再現されるようなったが,それは明らかに肉眼で見ているものとは違う.両眼視差の有無に目を瞑ったとしても,目で見て感動したものを撮影して後で見て,その時の感動とは違うことに気がつくことはよくある.写真は,レンズとフィルム(デジタル化した今ならば,画像素子)の距離を,広角から望遠まで自在に変えることが出来る.焦点距離が変わることで,素子上に結像する絵には特有の歪みが生じるが,それらは私たちの肉眼では起こりえない現象だ.一般的には35㎜フィルムカメラの焦点距離50㎜レンズの結像が,肉眼で見る像に近いと言われる.しかし,50㎜レンズで撮影された写真であっても,私たちの主観的視覚とは,明らかに違う.なぜなら,50㎜レンズの結像は,眼球におけるレンズから網膜までの焦点距離という,光学的現象の近似性だけを言っているに過ぎないからだ.
 私たちにおける「見る」という行為は,カメラのレンズに”勝手に”光が入り込んで,フィルムに化学変化を起こすような受動的な現象ではない.厳密に言えば,まぶたを開いたときに,光が目の中に入り込み,網膜の視細胞を刺激するところまでは受動的だろう.しかし,その後,刺激が脳へ運ばれ,分解,再統合され,最終的に意識下に上る間には,能動的な処理が行われている.つまり,私たちはそもそも,写された写真のようには世界を見ていない.
 話が横にずれるが,日本において「絵がうまい」ことの判断基準として,”写真のように描ける”というものが通底してあるように思う.絵が趣味という人が,実は写真に撮ったものを紙に描き写していたりする.それをカムアウトしている人もいれば,言わない人もいるが,出来上がった絵を見れば分かる.焦点距離が肉眼と違うからだ.表現として,あえて撮影されたものを描くという手段をとる作家もいる.意識しているなら,それでいいのだが,写真を通して2次元化されたものを描き写すことは,技術的に大したことではない.また,視覚による主観のフィルターを通していないものは,その人の個性も含まれておらず,作品としての面白みの大半が失われているように感じる.つまりそれは,「写真のようだから上手」という安直な価値基準でしか計ることが出来ず,さらに言うなら,それらはもはや「写真でいい」ものなのだ.
 しかし,写真機が発明されるより前の時代では,むしろそれが渇望されていた.光学的な規則性が発見される前の絵画では,視覚的な主観性のみが前面に大きく出ており,いわゆる前後関係などがばらばらである.西洋絵画において大きな発展を成したのは,16世紀のイタリア・ルネサンスにおいてだった.建築家や芸術家が,主観に依らない立体感の表現技法,すなわち遠近法を発明した.遠近法には,幾つかの種類があるが,そのどれもに共通する手順として「線」を用いる.厳密に言うなら,それらの線は,計測基準となる点と点とを結んだものであり,言わば,視覚的補助である.なぜ,視覚的補助が必要なのか.それは,私たちの脳がそれを必要としているからという結論になる.点と点が無数に集まると,私たちはそれらに規則性を見いだそうとする.しかし,点の多さから,そこに混乱が生じる.線が引かれることによって,その混乱が排除される.線とは,方向性の概念でもある.
 遠近法の確立によって,私たちは,無限に広がる外世界に,点と線で区切りを作った.そのグリッドを頼りにすることで,自然界のランダムさに惑わされない,空間の規則性を把握する術を手にしたのである.空間を点と線で区切る,これは私たちが「発明」したものだろうか.同じ長さの線なのに,その周囲に付随する斜線によって,違う長さに見えてしまう錯視画がある.似た類の錯視画を誰もが見たことがあるはずだ.錯視のトリックを明かすと「目がだまされた」と言うが,正しく言うなら,「騙されているから,生きられる」のである.錯視とは,光学的普遍性に対する視覚脳の高度な適応の結果であり,このシステムが働いているから私たちは,世界を正しく見ることが出来ている.私たちは,真実のままには生きられない.
 錯視で用いられる点と線は,遠近法と基本的な概念は同じである.つまり,遠近法は「発明」ではなく,むしろ「発見」である.遠近法の元には,万人が「騙される」のである.16世紀の遠近法の発見によって,世界は点と線で表現可能であることが確かめられた.これは,視覚的に立体感を捉えるための,おそらく最も還元された視覚世界であろう.なぜなら,そこにはもはや光が必要ないのである.現実世界で私たちが外界を見るとき,そこには常に光りがある.目とは,光を捉える器官である.視覚による外界の理解には,その進化において,常に光りが共にあった.光と影.それによって立体感も作られている.そうして,世界を見てきた脳が,視覚的経験から,概念としての空間性を認知するに至った.その表象が点と線による空間表現に他ならない.
 点と線による,立体感の表現は,絵画における表現で長らく用いられている.線によって陰影を表す版画ではクロスハッチングのように,その線の交差と角度で,対象の立体感を表す補助としている.クロスハッチングを独自に発展させて,立体物のドローイングに応用させたのは,20世紀の彫刻家ヘンリー・ムアである.線を一本走らせ,任意の点で直角に曲げる.それを繰り返すことで,紙面上に”光線に依らない”立体感を生み出している.これは,彼がその時に,どのように対象物を観察していたのかを表すものとしても興味深い.また,この描法で,平面である紙面において彫刻的存在感の再現を模索していたのかもしれない.
 20世紀後半から,コンピュータグラフィックが身近になり,三次元CGも一般の趣味のレベルまで降りてきた.これは,平面であるモニター内に仮想的な立体物を描き出す技術で,言わば,16世紀に生まれた遠近法の発展形である.モニターに向かって作業をする時,オペレーターは,大抵いくつかの「見え方」を選ぶことが出来る.その1つであり,もっとも基本的な見え方に,ワイヤーフレームがある.字の如く,対象物を点と線とで構成された”枠組み”で表す.コンピュータは点の位置情報を扱うだけでいいので,処理が軽く,マシンへの負担が少ない利点がある.オペレーターも,点と線だけで,十分に立体感を捉えることが出来る.それは,かつてムアが紙の上で試みたものと大差がない.
 点と線で強調される,視覚的立体感は,実は,私たちの生活空間にも多用されている.板金技術の発展した現代の自動車では,車体にはしるパーツの合わせ目が,高度にデザインされている.それは,意図された車のイメージを強調させる素材ともなっているのだろう.六本木の東京ミッドタウンの中庭で見られる,フロリアン・クラールによる大型の工業金型の様な屋外彫刻は,作品の表面を走る部品の接合部の線が作品の立体感を視覚的に高める効果的な要素となっていることが分かる.
 視覚的に立体感を与える要素としての点と線.このコントロールによって立体物の見え方は大きく変わる.それこそ「騙される」.3DCGの作業画面でも,点と線を扱う数式の違いで,描かれる格子(グリッド)は違う.
 永く感覚に頼ってきた絵画における立体感の描写は,16世紀に数式が入り込むことで,大きく変化した.それらは主に空間表現に限っていたが,現代では,それがCGにおいて個別の物体にも応用されるようになった.遠近法が,絵画のみならず立体物である彫刻へも応用される時代が到来しているのかもしれない.かつて,ムアが試みた視覚的実験に世界が今追い着きつつある.