2014年4月6日日曜日

「知」と「業」

 先日の講座の終了後に、受講された方のひとりが人物デッサンを見て欲しいと来られたので、幾つかのアドバイスをした。ある段階までの完成度があるからこそ、「ここをこうすればより良くなるのに」というポイントが浮かび上がって見える。他人の作品から、修正すべき点を見つけるのは容易である。これだけ容易に形の狂いを見いだせるのなら、自分で制作したらさぞ良い作品が作れるのではないかと私自身ふと思うこともある。
 ところが、実際は全くそうはいかない。自分でデッサンをしたり、粘土で造形すると、思い通りの形状が現れてくれないのだ。理解していることと、それを表現することとの間には思う以上の断絶が存在している。その断絶を狭める、もしくは埋めていく作業こそが日々のデッサンの繰り返しなどの「手業」の鍛錬なのだろう。言語による知識は、芸術家にとっては、あまりに集約抽出され過ぎている。例えば、「サイコロの形」と聞けばだれでもそれを頭に思い浮かべられる。では、それを描いて下さいと言われて、どれだけの人が破綻なく描写できるだろうか。

 造形家は知識をかたちへ還元しなければならず、そこには、言語を遙かに超える情報が必要とされている。そういえば、レオナルド・ダ・ヴィンチも、その事実に言及していた。造形家は、「業」と「知」が要求され、その両者を表現において結びつけられなければならない。「知」なき「業」は手癖に陥りやすい。「業」なき「知」ならば理論家に任せておけばよい。

 私は、人体の構造的な「知」は自らの内にある程度ため込んでいるが、「業」の鍛錬を長くないがしろにしてきた。形が見えれば見えるほど、芸術を見ることは楽しくなり、身の回りからも美しいものを見いだせるようになっている。それと共に、それらを形にしたいという欲求が自らの内で大きくなっているのも感じる。「業」をもういちど鍛えなければいけない。