2014年8月19日火曜日

好きな彫刻

 私は彫刻が好きだが、現代の作品で「これが好き」というものにほとんど出会えない。良いと思えるものはいわゆる古典作品から近代までに大きく偏っている。
ネットを介して、今まさに活動している若い作家の展示も見ることができるけれど、私にとってそれらの多くが彫刻には見えない。

 彫刻とは何か。いろいろな規準があり得る。中でも最も広範囲にカバーできる規準として”立体物”がある。現代において彫刻と立体物とはほぼ同義に扱われている。実際、彫刻の明確な境界線など引くことはできないだろう。
 ただ、古典作品のように時代を超えて人に愛される作品に共通してみられる彫刻的な要素はさがすことが可能だ。それらを要約して言葉にしたのが、「量感(マッス)」「動勢(ムーヴマン)」「面(プラン)」「構造」といった”彫刻用語”なのだろう。これらの要素が効果的にあれば、良い彫刻が成り立つということだ。つまり、私たちはこれらの要素に強く惹き付けられる性質を持っているのである。
 ただ、近代から現代になり、彫刻芸術の範囲は大きく広がったように見える。何が加わったのか。思うにそれは情報ではないか。現代以降の彫刻作品は、従来のモニュメンタルな要素のもの(それは永続的時間性を重視している)から、情報発信の道具(それは短期的時間性を重視する)へと変貌した。そのことが、彫刻の性質・作風を大きく変化させたように思われる。
 今どきの彫刻の多くはだから、非常に”饒舌”だ。やいのやいのと何かを喋り続けている。けれども、その体がとてつもなく貧弱なのだ。骨も筋肉もなく空気の抜けた風船みたいな体をして得意げに喋り続けているから、一種異様な感覚を抱く。でもこれは、やっぱりとても現代っぽい。まるでインターネットにあふれる姿なき言葉たちのようだ。

 古典的要素は決して古いのではない。そうではなくて、真実に近いのだ。その真実に近い部分で追求すべき芸術要素も多いはずである。
 きっと、私の好きな”古典的要素”を追求した作品もどこかで作られているのだと思う。けれど、時代がそれらを表層へ浮かび上がらせないのだ。きっとそうだと信じて、いつかそれら作品に出会えたらと思い続けている。