2015年3月5日木曜日

彫刻はデバイスではない

 彫刻作品が「デバイス」と呼ばれることに違和感を覚える。デバイス(device)と聞いて頭に浮かぶのは、何らかの目的のために作られた筐体、例えばパソコン本体であるとか携帯電話であるとかテレビであるとか、そう言うものではないだろうか。それらは確かに物質として置かれているが部屋に置かれることに価値があるのではなく、その物がもたらす”何らか”こそに価値があるものだ。彫刻がデバイスと呼ばれるのであれば、その彫刻はそこに置かれている作品形体そのものが重要なのではなく、それが見るものに何らかの感情変化をもたらす、そのこと”だけ”が彫刻の価値であると言っているように聞こえる。それは、絵画作品であれば納得できる。絵画は額縁という窓で区切られた内側に、仮想世界が広がっている。絵画作品はその仮想世界をこちらへ伝える装置(デバイス)であるとも言えなくもない。それでもひどく味気ないが。

 しかし、彫刻は違う。彫刻は仮想世界に立っているのでなければ、そこに私たちを案内することもない。あくまでも私たちと同じ時空に存在しているのだ。確かに、彫刻を観る私たちの心には何らかの感情変化がもたらされるが、それは仮想世界に浸ったそれではなく、今目の前にある形についての感情変化である。彫刻が群像劇に向かなかったり、一瞬の表情表現を拒むのは、このような理由によるものだ。彫刻はあくまでも、「今、ここ」から発するのである。もしくは、彫刻には「それしかできない」のである。

 そしてまた、彫刻は鑑賞者の感情変化をもたらす要素が、その存在そのものにある点も絵画と違う。その存在と要素とが完全に一致し離れることはない。この存在のありようは、私たち人間のありようと同じである。あなたを世間が認識するのは、まさしくあなたという存在を通してである。彫刻をデバイスと呼ばれるときに感じる違和感は、ここに繋がっている。「あなたという存在は、あなたを表現するためのデバイスである」と言われて違和感を覚えないひとはいないだろう。こう言われてわかることは、ここに心身二元論的な概念が根付いているということだ。デカルトが人間存在を機械的肉体と霊的精神とに分けたことと似通っている。更に、情報化と呼ばれる現在の状況も関係しているに違いない。何万円も出して手に入れるパソコンやケータイは、もはやその物質的存在にはさほど価値を見出されない。それらがどれだけ効率よく情報というかたち無きものを与えてくれるのか、それが重要で価値なのだ。このように、存在を「物質と情報」とに分けることに親しんでいる現在では、彫刻もまた、「形とコンセプト」のようにハードとソフトとに分けられると、”思い込む”。

 私たち自身が、変化無き一個の魂と衰え行く肉体とに分けられると考えるのはたやすい(この事実こそが驚異なのだが)。しかし、事実は違う。生まれてから死ぬまで、肉体も精神も共に変化し続けている。それらは全く切り離して考えることはできない。そして、あなたという存在が他者に認識されるのも、心身同体のあなたの全存在を通してなのだ。あなたが変われば、世に映るあなたの像も変わる。彫刻も全く同じである。彫刻はその形を通して、たったそれだけを通して、世界と繋がっている。彫刻は仮想世界から何かを引きつれてくるアンテナではない。そこに存在する、木や石や金属や土で出来た形態そのものが彫刻芸術の全てなのだ。

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