2015年8月11日火曜日

魔女狩りと科学

 最近はネットニュースに、閲覧者が感想文を寄せてそれが表示されるようになっている。様々な人がニュースに対しての感想や意見を気軽に投稿している。それらを閲覧すると、ネガティブな意見や独断的な意見が圧倒的に多い。匿名であることが、普段は言えないような心の暗い部分を吐き出させる場となっているのだろう。
 先日、国際欄で『インドで魔女狩りとして5人が殺害された』というニュースが載った。それに対する意見は想像通り「時代錯誤」を指摘するものばかりで、そこからインドという国のプリミティヴさを嘲笑するような方向に向かっていた。つまり、「科学が進んだ現代において、未だに魔女や呪術といった非科学的な宗教とそれに通じる過激な行為がまかり通っていることなど信じられない。何という未開拓な人々なのか」と言っている。もちろん、5人が殺害されたという事に対する否定的な感情がこれらの意見と結びついていることはあるにせよ、ここには、科学の優越性がにじみ出ている。
 
 今回のニュースではなくても、人類の歴史を少し振り返れば世界中で宗教や呪術の名の下に生け贄や魔女狩りなど様々な理由で人が殺されてきている。人が殺されないにしても、現代の私たちが見ると、非科学的で根拠のないような理由で、宗教的、呪術的行為がごく普通に行われてきた。人類の発展史と科学史を比べれば分かるように、現実には人類のほとんどの時代は呪術と共にあった。例えば、天気予報が「雨乞い」の呪術から、人工衛星とレーダーによる科学に”鞍替え”したのは前世紀になってからのことだ。

 インターネットやパソコンを使いこなしている私たちは本当に呪術など過去の物として捨て去り、科学的事実だけを信じているだろうか。決してそうではなく、むしろ、実は全く変わってなどいないということを、2011年の大地震の後に実感した。地震直後は大きな余震が続き、テレビでも津波被害や放射線洩れ被害のニュースが続いて、人々は常に不安の中にいた。あの地震は、それまで多くの人が漠然と信じていた科学の力やそれを使いこなす人間の自然に対する力が、あまりに無力であることを思い知らせた。「想定外」という言葉が連日使われた。そこでの”想定”とは、人類の科学的能力をそのまま指している。科学力は自然の針がほんの少し規定を越えると、それだけでほとんど無力と化すことが”痛いほど”明らかとなった。科学が無力だと感じ取った人々がどうしたか。呪術、宗教、超能力といった非科学的な領域に助けを求めたのである。あの頃、ネット上で次の地震がどこで起こるかを予知するという超能力者のサイトが数多く立った。内容はと言えば「予知夢を見た。何日にどこそこが揺れる。」という、ほとんど誰でも言えるような無根拠なものだが、レス欄には助けやアドバイスを請う人たちが群がっていた。それ以外にも、多くの非科学的情報に多くの人々が右往左往したことを覚えている。

 私たちは、自分の考えを越える、何か大きな拠り所となるものをいつも求めている。きっとこれは集団で社会を築くという生き方を選んだ人類に特徴的な性質なのだろう。それが指導者や王やシャーマンや宗教や政治を生み、ムラや国家といった全体をまとめることに役立ってきたのだ。もちろんそれは、個に対して集団を築くメリットを体感してきたからであろう。集団がまとめてかかっても、決して統治できない対象が大自然であって、それに対する拠り所として呪術的な行為が人類史の永きに渡って担っていたのだ。科学がその一部を横取りしたのはこの100年ほどに過ぎない。だから、その科学が無能と知れれば、私たちは直ぐに長年信じてきた「超自然的な能力」に逆戻りする。「科学がダメだから、何も信じられない」とはならないのである。

 魔女狩りのニュースを見て、非科学的だと断罪する人たち。その強い口調は、自分たち人類が永きに渡って信じてきた間違いに対する嫌悪さえ感じさせる。けれども、魔女狩りをする人たちの心理傾向は、間違いなく今の私たちの内にもあるはずだ。もし、私たちが信じる科学の非力さが再び知らしめられるならば、いつでも呪術的世界に戻る心の準備は整っているのだ。

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