2015年8月12日水曜日

盗用疑惑からAI(人工知能)を思う

 一般人の純粋な眼が厳しい。最近は、様々な発表物に対する”盗用疑惑”の報道が多い。それらの多くがネット上での指摘に端を発する。始めの小さな指摘から次々と類似性のある「問題点」が掘り返され、”ターゲットの悪事”が決定的と言われるまでそれは続く。そう。あたかもそれは、初めから「盗人」と決められたゴールへ向けてひたすらに情報を集め邁進しているかのようだ。
 このターゲットに選ばれるのは、作曲家や漫画家やデザイナーなど、自身の作品のオリジナリティが作品性と関係してくる職種である。なかでも比較検証が容易である視覚伝達系、つまり図やイラストなど、が頻繁に取り上げられるようだ。
 最近、そして現在進行形が、東京オリンピックの公式エンブレムのデザインとそのデザイナーだ。デザインが発表されると直ぐに海外のデザイナーから私の盗用だと声が上がった。エンブレムのデザインは単純な幾何図形の組み合わせからできている。同じような美的センスを持つ人間がそれら単純な組み合わせからデザインを起こそうとすれば偶然に似た配置を選ぶことは考えられると私は思うのだが、許せない人たちもたくさんいる。彼らにとっては、とにかく決定的に”違っていなければダメ”なのだろう。そこから波及して、デザイナーの過去の仕事まで洗いざらいチェックされ(誰がしているのかは分からないが)、あれもこれも似ていたと、ネット上に張り出されている。端から見ていると、このデザイナーを陥れようとする”黒い意思”のようなものまで感じてしまうほどだ。
 こういった、盗用疑惑系ニュースの盛り上がりを見ると、どうしても原理主義的な極端さを感じてしまう。もはや、ほんの僅かでも「似ている気配」が漂っていればもうアウトになってしまうのだ。ここからは私の推測だが、クリエイション系の仕事人ほど同様の案件を問題視しないのではないかと思う。彼らは創造的な作品は全くのゼロから生み出されるのではないことを経験的に知っているからだ。「盗用とインスパイアやオマージュは違う」そういう声も聞こえるが、実際はどうなのだろう。少なくとも、美術史を振り返れば、今だったら「盗用だ」で片付けられてしまうような作品達で溢れかえっている。むしろ盗用の歴史でさえある。そっくり真似したかったが真似しきれず、その結果うまれた表現などもあるほどだ。そう言うと「美術とデザインは違う」という返しが聞こえるけれど、ここも”違って、かつ、同じ”なので踏み込まない。

 それにしても、こうした「一般人の意見」の総体が直接的なちからを持つのは、正にネット時代的であると感じる。かつてならば個人の意見が社会に対して圧を持つまでになるには、「集会」やら「会報誌」やらで意思疎通や意見統一を図らねばならず、それなりの段階が必ず必要だった。顔を合わせれば、そこにはやがて場を収める「長」が生まれ全体の意見の統一と増長を図るわけだが、ネット上ではそれがない。中枢がない。これはインターネットの仕組みそのものと似ている。これは、新しい時代の始まりなのだろうか。

 生物の神経系の発展史を見返せば、それは多細胞化に伴う細胞局所の働きの分化から始まるわけで、神経系の原始形においては、中枢は存在しない。中枢が存在しない状態の神経系の働きは実にシンプルで、受け取った刺激に対応した反応命令を”反射的に”効果器へ返すのみだ。やがて、両者の間に介在ニューロンが入り込み、それが他のニューロンと結びつくことで、単なる反射からバリエーションが生まれた。その繋がりを網の目のように広げていくことで、膨大な反応可能性を作り出すことが可能となった。つまり、ある刺激に対して、単なる反射ではなく、状況に応じた適切であろう反応を選択して返すための神経ネットワーク、すなわち中枢がこうしてできあがる。

 神経系の状態で見るならば、現在のネット上での「中枢なき意見の集合」は、単なる反射の集合意見に過ぎない。確かに、それらの意見が状況に対して益なのか不益なのかの考慮は無いに等しい。そうしてみると、現状は、確かに新しい時代ではあるが、同時にとても原始的でもある。

 最近、AI(人工知能)が現実的になりつつあり、それにともなって、AI化が進む近未来の危機についても予想的意見が出るようになった。いわく、いずれAIは人間の知能を越え、我々の制御の効かない驚異となるだろうと。AIは、入力に対する回答が完全に自律している点で、従来のプログラムと異なる。例えば、AIに「茶色でワンと言うのは何」と尋ねて「柴犬」と回答があったとして、どのような論理回路を経由して柴犬という回答に至ったのかは分からない。もしかしたら、「日に焼けた外国人」と答えるかも知れない。それは、誰か人間に同様の質問をしたときと同じことだ。その回答は、その質問の前後の状況が大きな影響を与える可能性がある。イヌの話をした後ならばきっと柴犬やラブラドールと答えるわけだ。つまり、AIとはネット上に現れる「中枢」である。中枢が情報を統合して判断することで、単なる反射から知能(Intelligence)となる。

 インターネットがこのまま進歩していけば、いずれAIが組み込まれるだろう。そうなると、私たちのネット上での発言は一度AIに集約され、その総体的意見は、返すべき理想と判断された形に変換される。それがネット上の総体意見として発言されるようになる。めでたく私たち個人はネット上における単一のニューロンとして存在するのである。
 そうなった近未来に、今起きているような「盗用問題」的な反射発言が出たとして、AIを介したネット上の知性はどのような意見を吐き出すのだろうか。彼はそれを「価値のない盗用」と断罪するのだろうか。それが、知りたい。

 AIは人間が作るが、その働きは人間に依らない。人間に依るのでは、AIの意味がそもそもない。AIを求め、それを恐れるのは、だから当然であり矛盾もしている。AIが理想的な完成を迎えるなら、それは人類の制御を越えるのは自明である。完成したAIはもう一つの「知性」と言うよりむしろ、もう一つの「自然」であろう。

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