2017年8月31日木曜日

「見せる」か「見る」か

 イギリスの大英博物館やナショナルギャラリーなどの大きさになると、鑑賞者は世界中からやって来て、その数も凄まじい。さらに、これらは入場料を取らないので、再入場の手続きなども存在しない。館内での写真撮影は自由である。驚くことに、飲料などを片手に持ちながら鑑賞している人もいる。あれもこれも駄目という日本の美術館鑑賞に慣れていると驚いてしまう。ただ、日本ではあまり目にしない”自撮り棒”は禁止されている。
 それだけ鑑賞の態度が自由にされていると、当然、彫刻などは触られるようになる。大英博物館の石彫はそれでツルツルに磨かれてしまっている物もある。また、鑑賞者の遊び心で引っかき傷が付けられた物もある。鑑賞の自由さは、作品保護の観点で見れば、多大なリスクがある。大英博物館が展示室に出している物は、全収蔵品のたった1%だそうだが、だからと言って傷付けられても構わない収蔵品が存在するわけでもない。
 傷付けられるリスクよりも展示品を身近に見せることを優先させるという態度は、博物館の機能のひとつである、「集めた物を見せる」役割の主体の置き場によるものであろう。イギリスの博物館のそれは、明らかに鑑賞者側に主体がある。これは集めた物を見せる場としての本来の意味を忠実に保っているように思われる。対して日本の博物館や美術館の態度は真逆で、見せる側に主体がある。鑑賞者は、そこが示す厳密なしきたりに従って、静かにうやうやしく”拝観”せねばならない。展示空間は薄暗く、撮影は当然禁止である。それはまるで、誰かの家に入って、その所有物をこっそり見せてもらっているような申し訳なささえ抱かせるほどだ。日本の美術館が放つ”敷居の高さ”はこんなところも原因のひとつではないか。美術品や収集品の保護管理が重要なのは当然だが、一方でそれが行きすぎると、「大事だから簡単には見せない」ような態度に移行していき、本来の意味から離れていってしまうだろう。

 大英博物館の古代ローマ彫刻の前にイーゼルを置いてデッサンをしている老人がいた。ナショナルギャラリーでは低学年の子ども達が中世宗教画を前にして床で絵を描いている。一方で、日本の国立新美術館は「使用できる筆記具は鉛筆のみ」とツイートしている。その理由が「作品に触れてしまった時の影響を最小限にするため」だという。そこから伝わるのは”事なかれ”に過ぎない。
 見せることに対する後ろ向きな姿勢、もしくは尊大な態度が変われば、日本の芸術文化へのイメージはより開かれ身近なものになるだろう。

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