2017年9月5日火曜日

単位と自意識

 様々な単位がある。それらは全て人間が人間のために考案したものだから、人間が最も取り扱いやすい範囲で切り取られている。もちろん、途方も無い単位もあるが、それは取り扱いやすい単位の延長である。そう考えると、単位は基本的に身体尺だと言える。もしくは、人間尺とでも言おうか。

 例えば、宇宙はどれだけ大きいのかと想像すると、その途方もなさに、落ち着かない気分になる。宇宙に関する大きさの単位は、それこそ“天文学的”なものばかりだが、それも基準が人間尺から始まっているからだ。私たちは、対象の大きさを自分を基準としなければ、実感出来ない。だから、私たちを包括する宇宙は必ず”途方もなく巨大”になる。宇宙が巨大になったのは、私たちがそれに気付き、計測をしたからである。

 時の流れもまた同様だ。時の流れを、1時間などと区切るのは人間だけだし、例えば100年前、1千年前、1万年前などと聞いて、どれ位以前の事なのかを想像するが、その時に感じる”時の長さ”は、私たちが持つ”時間感覚”に照らし合わされている。私たちの時間感覚は何によって規定されているのか。私たちが体内時計と呼ばれるリズムを持っていることは有名だ。その調節には昼夜のリズムが重要だと言う。つまり、目から入る昼の明るさと夜の暗さの繰り返しの長さが基準になっているのである。しかし、それだけではないだろう。さらに、生態の特性によって修飾されているはずだ。生物固有の反応速度が、その生物の時間感覚と密接に関連しているだろうことは想像できる。例えば、手で捕まえることが困難なハエは、人間より高速に時間を刻んでいるのだから、その時間感覚は人間を基準とすれば、ずっとスローに見えるはずである。もちろん、実際にはハエはそんな風に”意識的”ではないだろうが。
 1億年前と聞くと、気が遠くなるほど昔に感じるが、それも人間尺で考えるからに他ならない。実際、5億年前の三葉虫の化石の、見事に保存されている様を見ると、5億年という時の流れも、人間基準の感覚に過ぎないと感じる。
 そもそも、時間の流れとは、実際にあるものなのだろうか。少なくとも、それが”ある”と叫ぶのは、生物の、それも人間ただ一種だけだ。

 サイズにせよ時間にせよ、世界を単位で区切る行為は、どれも意識的である。それは自意識の獲得と共に始まったのだろう。自己の存在を規定するには、自分が含まれている世界を規定しなければならない。自分に気付くことは、世界を、宇宙を気付くことでもある。一方で自己の確立は、宇宙からの自己の離脱でもある。だから私たちは「私と宇宙」と言う。私たちもまた宇宙である事は明白であるにも関わらず。

 なるほど人類は、意識によって宇宙を区切ってきた。区切ったものの間には境界ができる。境界で区切られた対象は純化していき、より捉えやすくなる。それが概念化である。概念は言語を生み、概念の構築が論理を作り出す。我々人間は、”区切る動物”だ。そう言い切ることが既に”区切っている”。
 しかしながら、区切っている段階は、まだ認識の途上のようにも感じる。なぜなら、世界は、宇宙は全てを包括しているのだから。我々はほとんど本能的に、そこに認識的(概念的)再構築を試みようとしているのだろう。ただ、現在は有象無象を切り取って名札を1つずつ付けている段階に過ぎない。果たして全てを再構築し、完全なる認識化に成功する日が来るのだろうか。

 もしその時が来たとして、眼前にあるのは、全てを始める前と同じものかも知れないけれど。

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