2015年1月5日月曜日

対等を主張する医師

 父の股関節骨折で、2014年の大晦日に病院で医師から手術と患者対応について説明を受けた。医師はマスクをしているが年齢は30歳ほどだと思う。ぼそぼそと余りはっきりしない話し方が気になったが静かな個室で耳が慣れれば問題ない。話し方はひたすら淡々としている。何度も話した内容で自然と口を突いて出てきているといった印象。基本的に母の目を見て話していた。事務的とも思える内容にはなんら不満もないが、ひとつ聞いていて引っかかったことがあるので記しておく。

 それは、術後に起こりうる不慮の事態への対応についての説明をしているとき。望んでいた想定の結果にならず患者家族と医師との間でトラブルが起こることがあるが、その原因はまず両者のコミュニケーション不足にあると彼は断言する。それは同意するが、同時にどう見てもこの対話さえ面倒そうにしているこの若い医師の言葉に似つかわしくないとも感じた。すると次にこう続けた。とは言え、私たちは非常に忙しいのも現実だと。その後は出勤サイクルの具体的な日にちや、夜勤もあるといったような実例を出しながら、休み無く働いている自分をアピールする。土日も勤務があると。なので、患者家族が休みであろう週末に私を呼び出されても困るという主張へ進む。そして、「私は医師と患者家族とは対等で無ければならないと考えています。」と言い、患者家族が休日で自由な時間に面談を設定されるのはフェアーではないので、それは認められません。私が忙しい合間に面談時間を割くのなら、あなたがたも仕事や家事の合間を削ってその時間を作って下さいと、そういうことをしばしの時間を割いて述べた。淡々と事務的なやりとりの中にあって、この時だけが、彼の感情に基づいた主張であった。もちろん私と母はずっと聞いているだけで、この前に休日に面談したいとかは申していない。そう言われるまえに釘を刺した、そんな物言いだった。

 私はこの主張が引っかかっていた。「医者と患者家族は対等な関係であるべき」という前提。これ自体がまず矛盾している。治療する側とされる側、施す側と与えられる側、そこに対等な関係は成り立たない。我々患者は彼らに与えていない。いや、患者が居ることで彼らの生活が成り立つ事実に立てばそれは言えるだろうが、医術の信念上それを言うことはない。患者がいることであなたは医者でいられると我々が言ったとして、彼はそれを納得するのだろうか。しかし、対等とはそのことだ。だが、彼が言うところの根拠はそのことではないだろう。彼の物言いにはどこか、自分たちが患者側よりむしろ下に置かれていると感じるところからくる主張に聞こえるからだ。確かに現代は患者側の立場が尊重され、患者の処遇や対応について病院や医師側が逆境に立たされるような事例を聞くこともある。だがそれは、患者側が医者より高い立場になったからではない。むしろ、患者側がそのように医者に意見できるようになったことは対等な関係性に近づいているということだ。医者は患者を救うために高い知識と技術を要求される。助けられる患者はそれへの対価として何を医者に与えられるのか。それが社会的地位であり高い報酬である。我々は社会保障や治療費によってそれを払っている。医療という行為に対する平等性はこのようにして成り立っているはずだ。もちろん常に流動しているだろうが。だから、”医師より患者が条件が良い”と彼が感じるのは正しくない。条件は同じである。
 更に、自分が忙しいのだから患者家族が余裕のあるときに予定を組むことがアンフェアだと言う主張もおかしいのだ。なぜなら、この医師の忙しい日々は日常だが、患者家族にとって病院へ赴く日々は非日常だからである。非日常を医師に合わせて日常に変えることは不可能である。しかし、日常の隙間に非日常の予定を組むことは可能である。だから、彼が対等関係を主張するのなら、結局の所、日常を生きている彼が患者側に合わせることにならざるを得ない。

 つまり、社会的な立場においては我々は既に対等であるし、日常を過ごすことにおける対等性は医師側が歩み寄るしかない。既に非日常にある患者が医師の都合に合わせろと言うのは、全く彼の言う主張の真逆を私たちに要求している事になるのである。
 そのことこそが、彼が持論を開帳したときに私が感じた違和感の根源であった。

 2015年1月5日記す。







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