2015年2月24日火曜日

人をまとう魚

 人体は、初めからこの形で地球上に現れたのではない。少なくとも科学的にはそう断言しても良いほどに条件が揃っているということだ。だから、遠い過去に遡るとその地球上にはどこにも人間の形は存在しなくなる。例えば7千万年前の恐竜時代には、まだ人間の形は存在していない。その頃の「やがて人間へと続く動物」はネズミや猫ほどの小さな4つ脚の哺乳類だったそうだ。このようにしてどんどんと過去へ遡れば、やがて体毛も消え、体温を作ることもせず、徐々に水辺へ近づき、仕舞いには水中へと入っていく。つまり、私たちはかつては魚の形だったのだ。進化の順で言い直せば、「魚の形が、人の形になった」のである。このように、進化的な長い時間を経てある生物の形が形成されることを系統発生とも言う。一方で、私たち個人は、あたりまえだが、母親から生まれる。それも魚の形で生まれてくることはない。だれでも、初めから人の形で世に出てくるわけである。だれでも生まれたときから人の形だから、私たちは生物史的にもずっと人間の形をしていただろうと漠然と思いやすい。だから、神話や宗教で語られる人類は初めから人間の形をしている。けれども、よくよく考えれば、生まれ出る前から母親の胎内ではすでに存在していた。その期間(およそ10ヶ月)の初めの2ヶ月は胚子期と呼ばれ、このころに体の器官が形成される。つまり、人の形がゼロから(いや、1個の細胞から)作り出されるのはこの2ヶ月間のお話ということである。この間の胚子の形の変化を見ると、細胞分裂からそのままスムーズに人の形ができて”いかない”ことに驚く。初めは尻尾が長く、顔の脇にはいくつもの溝がある。それはまるで数条のエラの切れ目を持つサメのようだ。やがて、腕と脚ははえ出てくる。その先にはヒレがある。そう、魚のヒレ。このヒレの水かき膜が消えていき、残された骨周りが指となる。このように、人の形の出来方はまるで魚から人への進化のようだ。このような人の形が形成されることを個体発生と言う。私たちひとりひとりも、はじめから人の形としてできるのではなく、まず魚をつくって、そこから人の形へと変形させているのだ。つまり、系統発生的に見ても、個体発生的に見ても私たちの体は「魚の変形体」というようなものだ。もしくは、「乾いた陸上生活に適応した魚のなれの果て」とでも言おうか。

 魚の変形体である私たち。自らの形に魚の形の断片でも見出すことができるだろうか。そう思って見回してみれば、共通する構造はいくつか見出せる。目がふたつに口がある頭部。背骨や肋骨も共通している。しかし共通しない部分も多い。魚に耳は?まぶたがないぞ。首がないな。等々。もちろん、両者で最大の違いは呼吸器(エラと肺)だろうが、構造的に見えてくる違いが多い。そしてそのほとんどが、魚が上陸したことで身に付けざるを得なかった機能である。つまり、「後から加えた」ものだ。ここで、非常に興味深いのは、生物はどうやら初めから持っているものでなんとかやりくりしたいと思うものらしく、新しいものが必要となるとそれをゼロから作り上げることはせずに、もともと体にあるものを改変していく傾向があるということだ。だから上にも書いたように、私たちの腕や脚は上陸してお役ご免になったヒレの再利用であるし、空気の通り道である気管周りも、使わなくなったエラをリサイクルして作り上げている。

 この時、ヒレから作り出された腕と脚は、水中時代とは比べものにならないほど大きな役割を担わされることになった。すなわち、重力に逆らって体を運ぶ、ということだ。その為に、この4本の突起の根本には筋が広く発達することになる。しかしそれらの筋は、もともとの体の中へ侵入することはない。体の表面に広くその場を求めた。それはまるで、地中に根を張ることができない大木が、その根を地中浅くしかし広く張るかの如くである。その結果、私たちの体の形を作り上げている筋肉は、層構造をなすことになる。それもだから、深層に魚時代の筋層を、浅層に上陸してからの筋層を重ねたかたちとなっている。

 外から見ただけでは、見慣れた「人の形」だけが目につくが、その形は長い歴史の基にたどりついたものだ。そしてそれは、この形を目指してたどり着いたものではない。環境の変化に対峙したとき、その場その場で、手元にあった体を改変して何とか乗り越えてきた”結果のかたち”である。生物の形はだから、それが続く限り、いつでもが「暫定的完成形」ということなろう。

 ところで、人体において、表層にまとっている「人の形」を取り去ると、そこには古い「魚の形」が立ち現れる。それは、3億5千万年前から隠してきた太古の姿、私たちのひとつの起源的な姿にも見えて興味深いのである。



0 件のコメント: