2015年12月5日土曜日

知の利用

 哲学書を開くと何らかの共感を得る。そこには、自分がふと思ったり、考え込んだりしたことが整理した形で現れていたりする。さらに、自分では降りることができなかった深みやより広い視点が同時に示されている。つまり、自発的に気付いたものの、ハッキリとはそれを認識できなかった事柄について、予め考えていてくれていたりするわけだ。そういうものに出会うと、人間誰でも考えることは大方同じなのだと再認識する。二千年以上前の異国の人物が現代人と同じような事に思考を巡らせていた事実から、どう考えるだろうか。主に先進国と呼ばれる国に住む人間のあり方は二千年で大きく違っている。その違いを生んでいる最たる理由は科学技術ではないだろうか。逆に言えば、科学技術とそれに立脚した技術的なものを除けば、実は文化的な面でも生活的な面でもそれほど変化はしていないようにも思える。それどころか、私たち自身の身体はたった二千年では、それこそ全く変化などしていない。よく、戦後で日本人の身長が高くなったとか、顎が小さくなったとか言われるけれども、それらは環境の変化に対応した振れ幅に過ぎなくて、言わば発現形の”あそび”の中での違いが見えているだけとも言えるだろう。私たちは、形在る存在である。意識や思考が生み出されるのもこの形からで、形が同じならばそこから出てくる意識思考も大方同じにならざるを得ない。そう考えると、二千年前の異国人と似た考えが浮かぶのもそう不思議なことではない。ただし、私たちの思考も、私たちを取り巻く環境から完全に自由ではあり得ないので、そこに歴史的哲学と現代の私たちの認識との間に違いが紛れ込む。各時代の読者たちは、その部分を自分の生きる「今」と照らし合わせて解釈してきた。その行為は今も、これからも続いていくのだろう。

 さて、上記までは、自分で気付いた人がその確認またはより昇華させるための手順として既存哲学を使用する場合だが、哲学との出会いが全てそうであるはずもない。むしろ、哲学の多くは、自分では未だ気付いていない、考えてもいない、そういう方向を指し示す。良くできた哲学はみな高度に論理的に組み上げられている。私たち読者は、それを辿っていけば著者の言わんとする頂上へとたどり着けるようになっている。そうすると、自分では気付いていなかったことが、あたかも、自分で気付いたかのように錯覚するのである。では、自分で気付いていないのに、他者から与えられた思考体系を得ることを否定できるだろうか。これを一概に否定することは勿論できない。他者の経験を共有することは私たち人類が成功している大きな要因のひとつであろう。もしそれができなかったなら、それは多くの人間以外の動物と変わりがない。この場合の問題は、哲学書にその著者の思考体系の「全てが記録されているのではない」という事実にある。文章や言語は確かに私たちの思考という形無きものを実体に刻みつけ、他者に伝導させるちからを持つが、それは未だに完全ではない。言語が伝えているのは、美術で言えば抽象に過ぎない。だから、私たちは哲学書の内容を、まずは理解しようと肯定的に取りかかる必要があるものの、それを鵜呑みにしているのではいけないのだろう。鵜呑みで満足しているということは、自分で思考していないことを意味する。自分で思考していないというのは、哲学書を利用していることにもならない。それは言わば、赤信号なら止まる、青信号なら進む、と機械的な反応をしているに過ぎないのである。蓄積された哲学を私たちはどう利用するべきか。それらが真に意味を成すのは、それらを利用し、その先へ進もうと指向するときではないだろうか。そこに求められるのは常に能動的な態度である。私たちは常に自ら思考し、そのあやふやな歩みを過去の哲学によって舗装することで、ここから先を目指さなければならない。その時こそ、哲学は人類に有用な「知の道具」となる。
 このことは、何も特別なことではない。過去を知り、それを批判し、再確認していくことで、停滞した蓄積ではなく発展を生み出しているのが科学技術である。これが知に応用できないはずがない。なぜその方法論が文化にはなじまないと決めつけてしまうのだろうか。勿論、構造の違う両者を同列には語れないだろうが、それでも、応用できる方法論は見つけられるのではないだろうか。

 私の関心事の最たるものである芸術の現在も、個人主義が浸透した結果、発展が滞っているように映る。私たち人類は、”人類レベルでの発展”の経験を僅かながらでも知っているはずなのだから、それを応用してみようと試みても良いのではないだろうか。
 ひとりひとりが、芸術の山を登るのに、それぞれの登山道を踏み固めて作ろうと試みている。それも悪くないが、道がないわけでもないのだ。既存の登山道を利用して、上がれるところまで上がってみても良いだろう。そういう道があることを知っている者は知らない者に示すこと、その有効性を示すことが、結果的に全体の底上げに繋がるのだと思う。

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