2018年2月12日月曜日

システィーナのアダム いつから人か

   先日の朝カルで受講生の方から、システィーナ礼拝堂の天井画のアダムについて洞察に満ちた意見を聞いた。

   当日のモデルポーズでは、左腕を左脚の膝に預けるように置いてもらった。そうしないと、長時間の静止は難しいと考えたからである。実際、天井画のアダムも腕と膝とは重なって描かれ、置いているように見えなくもない。しかし、膝に腕を置いたモデルポーズでは腕がアダムのように上昇して行かず水平位に近いものになる。

   その方は、モデルポーズとアダムの姿勢を比べて、手を伸ばしている腕の角度こそ重要であると気付いた。そして、アダムの左肩から上腕にかけての筋の強い収縮とそれに相対する左手の力の抜けた表現から、生き始めたアダムの体が大きい筋から徐々に動かせるようになるさまを見て取った。たしかに実際の成長過程でも、手指の細かな制御は遅れて可能になる。この「アダムの創造」の天井画は、互いの人差し指が触れ合う印象が強いが、実際は指を伸ばしているのは神だけで、アダムの手首から先は力が入っていないのである。
   
   その指摘を受けてから改めてアダムを見ると、それまで姿勢と構図だけを見ていたこの人物の中に、確かに“力”つまり生命感の抑揚が表現されている事に気付く。アダムの全身を左右に分けるなら、地面に近い右半身は伸ばされ、対側の神に近い左半身は縮むか力が込められている。命を与える、もしくは与えた神の方に筋収縮という生命の証を割り当てているかのようだ。

 芸術作品は何かを雄弁に語りかけてくるように見えて、その実、読み取る側に全て任されているものだと感じさせられた。メッセージはそれを聞く用意のある者にだけ届けられる。


   ところで、この天井画の元になっている創世記では、神はアダムに命を与える方法として、鼻に息を吹き入れる。聖書に従うなら、この天井画は命を与えている場面ではない。それでは、このアダムはどの状況が描かれているのか。そもそもミケランジェロは聖書の単なる説明画としてなど描くつもりはなかったのかもしれないが、それでも実はこれは命が与えられた瞬間ではないのかもしれない。私には次に述べるストーリーが見えるような気がする。

   両者の目線を追うと、アダムは神の顔を見ているのに対して、神はアダムの左手を見ている。指先にまで力が入り、かつ意識がそこまで行き届いているのは神の方だ。つまり、神はアダムの手を掴もうと意識を集中しているのである。アダムは地面に横たわっているのだから止まっているが、神は宙に浮いている。それもどうやら彼自身で浮かんでいるというより、周りに群がっている若い人物たちに支えられている。彼らを見ると、神の左手を肩に担いでいる者は体を神と反対側に向けて顔だけ振り返っている。さらに神の脚の上方にいて画面外へ視線を送る少年は、神の左腕を担ぐ若者の膝に手を回し、神とは反対側へと引っ張っている。つまり、神を浮かばせているとおぼしき若者たちのうち少なくとも2人は、神をアダムから引き離そうとしているようなのだ。これは、宙に浮かぶ神が、あたかも水面に浮かぶ船のようにゆらゆらと安定しない様を表しているのだろう。神の周りの人物たちはそれぞれの方向に神を引っ張って、ちょうどオールで舟の向きを調節するように、アダムの手に神の手が“接岸”するように調節しているのである。神の肩周りにいる少年たちは「今まさに届くぞ」と言わんばかりにその瞬間を凝視している。神と反対を向いてその左腕を担いでいる若者もそうだ。彼(彼女にも見える)は、次の瞬間に訪れる自らの仕事に神経を集中している。それは、神がアダムの右手を掴んだ時に、その腕を引っ張って力の向きを変える事である。そうすることで、神はアダムを立たせようとしているのだ。
   土から作られたアダムはすでに命を与えられている。だが、命を与えられてもその肉体をどう使えばいいのかまだ分からない。両脚が立つためにあることさえも。命を得ても立てないアダムを見かねた神が、その手を取り引き上げて立たせようとする、まさしくその直前が描かれた光景である。そうして、二本の脚で立ち上がる事で初めて彼は“立ち上がった者”となるのである(adam erectus)。

   このように見ていくと、そこに”人は人の形をしているから人であるわけではない”という示唆が読み取れる。それがどういう事なのか、聖書の記述と共に見ていきたい。
   創世記(新共同訳)では「土の塵で人を形づくり」とある。“人を形づくり”の部分は英語標準訳では“formed the man”である。もちろん、形作られる元は神自身の姿である。しかし、この段階ではあくまでも人の形の土像、神自身の塑像であって、そこに命は無い。そこで神は像の鼻に息を吹き込むことで、「生きる者(living creature)」となる。これはまだ人ではない。次に神は、この“生きる者”の環境を作り、そこに彼を置くのである。さらに彼にそこを維持する事を命じる。システィーナのアダムはこの直前の時系列に位置する。

   神によって形作られ、命が与えられ、立たされ、環境に置かれ、そして生きる理由(園を守る)が与えられる。次に神は、動物たちを彼の周りに放ち、その命名を彼に任せる。アダムは動物たちに名前を付けた。この時、アダムは“立ち上がった生きる者”から“人”になったのである。なぜなら命名とは分離であり、その行為は自分は彼ら動物“ではない”という認識が先だってなければならないのだから。彼は動物に名を付ける事で自己との違いを言葉で刻印していったのだ。明確に違いが明らかとなった今、それらは彼を助ける存在とはなり得ないことを知る。そうして、それ故、アダム自身からイヴが作られることとなる。

 なるほど人は、その形故にそう存在するものでは無く、精神的活動を伴って、自らを環境から分ける自意識を持つことで人となったのだ。


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