2009年4月7日火曜日

具象と抽象

私たちは物事を、具象と抽象とに分ける事が出来る。この言葉は特に芸術でよく用いられる。つまり、具体的な形状をその形に即して表現したものを具象と呼び、そこから離れ心象的でそもそも形状を持たぬものを表現したものを抽象と呼び習わす。

そして、美術の初期教育などで聞く事があるものに、「抽象は難しい。具象をやって、やがて抽象へ至る。」というものがある。美術を習い立ての者が、いきなり抽象的な表現をしようとすると、そう言われてたしなめられるわけである。まず、目の前の物を描けるようになって、やがて、抽象を求めるようになるのが本道というわけだ。

しかし、脳の認知から見れば、それが正しいとは言えなくなる。私たちは、目を開ければ世界が眼中へ飛び込んでくる。それゆえに、視覚は「見るに苦労しない」受動的なものだと考えられてきた。目を開ければそこに見えているのだから、それをそのまま表現することが一番簡単なはずだ。言わば、視覚をトレースすればいいだけじゃないか。そう思っていた。なのに、描けない。このジレンマは、美術の教程が必修である日本人なら、ほぼ全員が体験済みの感覚だろう。


ここで、冷静に考え直せば、なぜ、見えている物をそのまま描くのが簡単なら、小さな子供は始めに写真のような絵を描かないのかという疑問に行き着く。そう、子供の絵は常に抽象なのだから。ここから導かれることは、視覚に映っている情景と、認識している事柄の差異である。カメラのレンズは時に目に例えられるが、だからと言って脳をフィルムと例えられない。私たちは物をフィルムに焼き付いた映像の様には見ていないということだ。

私たちの視覚機構は、次のように言い換えられる。目に映った具体的な映像は、脳に入るや即座に無数の抽象的情報に分解され、理解される。何を見たのかを意識しようとするとき、それは再び再構築される。


つまり、視覚の認知はまず抽象化から行われるのだ。そしてむしろ、写真のような認識などより、その物の抽象性こそが重要な情報として取り扱われる。この視覚の抽象化が行われるからこそ、私たちは物体の形状を理解できるし、視覚に収まらない山や海、地球などを理解することができるし、歩いただけの道を地図として描く事もできる。


見た物を見たままに表現する、という行為はそもそもは生存の為には必要のない行為であるから、それをしようとすると、脳の様々な機構を意識的にスイッチングしていかなければならない。絵にするなら、立体物であるという認知を平面へ、固有の色彩と光の反射光の色を、同系列の色へ‥。

具象を描くことのほうが、本質的には抽象よりも難しい。

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