2008年10月11日土曜日

本当の芸術



現代の芸術は、ロマンティックに過ぎる。作家の感傷を見せつけたり、個人的な孤独感のはけ口のようだ。外部との対話を断ち切り、興味のある方だけどうぞ、といった風で、その意味では「おたく」的である。作品を作るという時点で対話を望んでいるはずにも関わらず、対話に積極的ではない。誰かが見つけてくれるのをひたすら待ち続ける。この場合の発見者は、ギャラリストになろう。新しい作家は、ギャラリストによって「発見」されるものになった。作家の価値は、ギャラリストによって付けられ、位置づけも低いものになった。

こうして、現代の作家は、画廊によってのみ社会との接点を持つ、特異な存在となる。社会から遊離してしまったのだ。作家はますます孤立し、内へ籠もり、対話性のない「自分だけの世界」を作り続ける。今のアート・マーケットのトレンドして流通し、そこで金は動くだろう。だが、それだけのことだ。これは、”本質的な芸術”では、決してなく、時代に消費されていく「生もの芸術」である。週刊誌のようなもので時間がたてば(それも短い時間)ゴミと成りはてる運命にある。

もちろん、そういう「今」だけを売りにする芸術があっても良い。生演奏のライブ感も必要だ。だが、綿密に作られたクラシック音楽を忘れ、皆がそちらを向いているような現状は、どうなのかと思う。

彫刻を通して考える。クラシック芸術と言うと、古代ギリシアやミケランジェロを想像するだろう。今では、ロダンもその枠に入るかもしれない。ロダンはミケランジェロを、ミケランジェロは古代ギリシアを参考とした。参考であって、模倣ではなかった。「彫刻とは何か」というコアの部分を受け継いだのだ。それを守り、受け継ぎ、そこに時代が求める表現を載せていたのだ。結果、それらの作品は時代を超えて、人種を越えて、”人類の芸術”となり得た。

さて、そのコアとは。それは、「形の研究」だ。彼らは、人間のかたちを研究した。そのもっとも純粋なものは、やはり古代ギリシアの彫刻群だ。カノン、コントラポスト等、人体の恒久的比率、形状が立体的に考察された。その研究結果発表が、あの彫刻群なのだ。そこには、現代の芸術にあふれている(それだけといってもよい)ロマンティックさは微塵もない。厳格なまでの形状研究の追求結果があるのみである。それを参考にしたミケランジェロも、同様であった。彼は、形を捉える天才だった。彼は人体の形状を愛した。男性裸体が多く、それは、彼の男色傾向としばしば結びつけて語られるが、それは本質的ではない。人体の形状を構造から見ていくと、おのずと男性の裸体にたどり着くものなのだ。女性の裸体は、滑らかすぎ、量感に欠けるので、純粋に彫刻的に見るとき、男性裸体に劣る。ヌードというと女性裸体を想像するのは、芸術家がクライアント(もちろん男性の)の要求に会わせてきたが故の帰結である。ロダンの時代となると、芸術家と社会の関係性も現代に近づいているが、彼もやはり、人体を通しての形体の研究者だった。そこに、時代が求めるロマンティックな要素を取り込んで大成功した。彼らの芸術を鑑賞する人間は、そこに綿密な観察と研究から作り出された絶妙なる形状を「見ない」。その上に載せられた、物語性やロマンティシズムを「見る」。それでいい。それこそが彼らの計画通りなのだ。それでは、作家たちの研究は無駄なのかと言えば、そうではない。その厳密な形状があるからこそ物語性に酔うことが出来るし、なんと言えば、物語性の奥に厳密な形状の美しさを感じ取り、そこにこそ心が動いているのだ、とさえ言える。

彫刻芸術の本質から言えば、作品の物語性やロマンティシズムなどは、刺身のツマに過ぎぬ。現代の彫刻家で、形の研究として彫刻を捉えている者がいるのだろうか。ただ単に、表現の手法に立体物を用いているから「彫刻家」と名乗っているだけではないか。

芸術家は、伝記が好む、「激情的」で「感覚的」で「人と違う」ような人間である必要などない。むしろ、冷静で、分析的な姿勢こそが現代の作家には求められると思う。本当の芸術、歴史に残る芸術を志すならば、「自分の為の自己表現」など止めて、形の探求という本筋へ戻るべきだろう。それは、人種を越え、時間を超えて、人類共通の感覚を探るということだ。

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