2018年10月29日月曜日

音楽と美術

   声楽家のレッスンに参加した。私が歌うのではない。ある方法論に基づいた指導法の冒頭に、身体についてのミニ講座をさせて頂いたのだ。
   その指導法のベースは身体性にある。指導者の話を聞いていると、どうやら声楽の指導は一般的に感覚的に偏りがちなようだ。そこに身体という自らの基盤に気付かせ、それを意識させることで発声に関係する諸問題を改善させるべく指導を行なっているのである。
   声楽の事は全く知らない私にとって、声楽は自らの身体を楽器として用いる始原的な音楽的活動に映る。人類にとって「話す」の次には「歌う」が来るのだろう。声楽家は「身体が資本」という点でアスリートに似ている。今、プロのアスリートの身体ケアは医学に基づいた科学的なものが基盤になっている。その選択の正しさはレースの結果が示す。科学的なケアによってアスリートは故障を減らしパフォーマンスを向上させることに成功している。一方で、アスリートと同じように身体的基盤が重要である声楽が、未だ感覚的指導が一般的であるというところが意外にも感じられたが、それは声楽を含む音楽があくまでも感覚が重要視される“芸術”領域に立脚していることを強く示している。
   一方の美術は、それが感覚“だけ”が重要だと言う風潮は近代に入ってからの話で、それ以前は常に基本的技術を高いレベルに保ち一定化を図る目的のテクニックが共にあった。人体表現に至っては解剖学であり、風景画に至っては透視図法や色彩学のように。人体表現では解剖学が整うずっと以前の古代ギリシアから数学的な秩序も探求されてきた。人体は「カタチ」であって、それは目で見えるものだから、早くから関心を持たれてきたのだろう。だが、声楽つまり発声はカタチのない「コト」だから、どういう仕組みで声が出るのかはそう直ぐに分かるものではない。指導者の方に、発声指導に身体性が導入されたのはいつ頃なのか伺うと、喉頭鏡で声帯が見られて以降だろうと。名前を聞いたが忘れたので後でググると19世紀スペインのマニュエル・ガルシアだと分かる。声楽家であり教育者であるガルシアが喉頭鏡を発明したそうだ。表現者で研究者というと、19世紀フランスの彫刻家で解剖学者のリシェを思い出した。表現者が研究者、そういう時代だったのだろうか。近世的な生理学の始まりは、17世紀のウィリアム・ハーヴィーによる血液循環説とされるが、発声の生理学的説明はいつからなのか気になる。いずれにせよ、近代的な声楽家への発声方法は、今現在、解剖学の応用が始まった段階のようだ。

   今回招聘いただいた指導者の方は自らがソプラノ歌手であり、あくまでも現場との接点に立って指導をされている。「私はどこへ行っても、その場所にフィットしない」と仰っていた。新たな視点に立つ人は皆、どこにいても居心地の良さを得られないものなのだろう。しかし、そのような人たちがいつも新しい道や場所を作るので、後続者はそこを歩き集うことができるのである。

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