2018年10月1日月曜日

今も過去もない

   縄文土器を思い浮かべながら、縄文時代と現代の違いについて考えている。別にそれは縄文時代に限らず、ヴィレンドルフの3万年前でも良いし、荻原守衛のいた明治時代でもいい。それこそ、つい先日に最も古い動物としてニュースになったディッキンソニアと我々を比べたって同じだ。それが何かと言うと、「過去は今より劣っている」わけではないという実感である。わざわざそんなことを言い直すのは、もちろん、我々が普段は「今が最も優れている」と感じるからである。その事実そのものも興味深い特徴ではあるが、ここでは、その強力な実感が真実とは限らないことを強調したい。
ディッキンソニアの化石
   現代と比較する過去の事象を縄文時代とするのは、たまたま縄文展が開催されて、その印象が強く残っているからだ。それ以外にも縄文時代が日本での出来事だというのももちろんある。自分が生きている土地での出来事だから、たとえばヴィレンドルフ・ヴィーナスを取り上げるよりも若干は身近に感じられる。
   縄文展が少し前まで上野で開かれていて、その宣伝文句が「日本の美の原点」であった。私はこれに違和感を覚える。縄文人は、ここを日本と呼んでいないし、そもそも国に属しているという概念も無かった。私自身も縄文文化の発掘品を見て、現代日本との文化的連続性を感じることができない。文化的に彼らと私たちとは連続性があるとは思えない。縄文人は現代人が日本と呼ぶ大地にかつて生きていたという事だけが彼らと我々を結ぶ共通点だ。また、現代の我々はその理解しがたい美的センスに、洗練されていない始原的な美を見出す。それは、ヴィレンドルフやラスコーの壁画などに対しても同様に言われるセリフだ。太古の美術はプリミティヴだがそれが良い、と。
   さらに気になるのが、過去の人々は現代人が失ったものを持っている、という言い回しである。これは一言なら現代文明批判であって、その根底には「現代が優れていると一般的に思われている」という前提がある。いずれにせよ、それは「現代vs太古」というような対立的比較である。その考え方は、時間が過去から現代へと流れている認識に基づいている。それは「劣から優」へ向かっている。だから、古代美術はいつでも「古いのに凄い」と言われるのだ。その言い回しは、もし現代の品ならば大した価値が無いと言っているのと同じで、つまりは価値を担保しているのは「古さ」なのだ。つまり、古いものは劣っているのが基本と認識されている証である。

   3万年前の人類は、すでに現代人と変わらない肉体である。もっと新しい時代の縄文人も同様だ。ただ、同じ道具(肉体)でも使い方のバリエーションに広がりはあるだろう。脳の使い方、つまり世界の見方も同様の振れ幅の広さがある。縄文人と現代人の違いはそこに現れる。縄文時代は1万年以上続いた。変化の激しい現代に生きる者からは想像し難い長さである。しかしそれを長いと感じるのも現代人的なセンスであることに気付くべきだ。千年前と今日が同じである日々を想像してみよう。身の回りで変化するのは家族など人々だけだ。伝承されるものはずっと同じ。する事もずっと同じ。他者との比較と社会的ヒエラルキーが構築されていなければ貧富という概念もない。ただ身の回りの環境は天候など時々荒れたりもする。人々が願うのは今日が明日も維持されることだったろう。世界がどこまで広いのかは分からない(これは宇宙がどこまで広いのか分からない現代と同じだが)が、それは現実的な問題でもない。常に国家間の緊張を抱え、社会的な優劣が金銭という概念で取り決められる現代とは大きな違いである。

   古代人は現代人より劣っているのではない。その言い方は現代人的価値観からのものだ。古代人はその生活で間に合っているのだから、そうしていたのに過ぎない。これは現代人も同じである。
   アインシュタインが、もし戦争が起きたらどうなるかと聞かれて、次の戦争は核を使うだろうが、その次は石の投げ合いだろうと答えたそうだ。核によって現代文明が崩壊すれば世界は再び石器時代のようになる、という皮肉と警告である。この言葉には別の捉え方もできる。石器時代的な文化はたとえ核戦争で文明が失われてもなお人類から奪い去れない、という事だ。科学技術は知の積み重ねであり、またその歴史も人類史的にごく浅い。そのような不安定なものはすぐに崩壊してしまう危険性がある。一方で、何百万年も続けてきた石を道具とするような生き方は、人間の形をしている限り、忘れられることはない。私たちの目と手があって石があれば、何かをまた始めることができる。石を使う能力はすでに手のひらという身体形状にまで刻み込まれているのだ。

   現代は人より上位には金が、より下位に物が位置付けられるが、縄文時代はそれらが渾然一体だったと言う考えを聞いた。それはそうだったかも知れない。環境と自らとを明確に分けるのは西洋的で意識的である。明確な自意識の確立が、環境と自らとを分け隔てたのだろう。そうして「私」という存在に気付くことができる。
   ただ、この人間と取り巻くものとの関係性の転換が本当に起こったのかは分からない。私はむしろそのような転換は実際には起こっていないのではないかとさえ思う。そう考える根底には、過去と現代を比較して現代が間違っているような有りがちな構図で見たくないという私の考え方がある。現代人は本当に、過去の人間が持っていた何か今より大事なものを失っているのだろうか? 現代人は間違った方向へ進んでいるのか? 太古の人類の行いは今と比べてより正しいのか? 本質的な問題は、多くの人がなぜそう考えてしまうのか、である。それは今は無いものへの憧れ、ノスタルジーが作り出す幻想に近いように思う。過去はいつでも輝いている。少し視点を変えて、生物進化を見てみよう。それは身体というハードウェアの変化の経歴だ。魚から人間へ、我々は変化してきた。しかし、変化の度に過去を捨てて新しいものを手に入れるということはしていない。私たちの身体には過去が形を変えて残っている。我々は入れ替えるのではなく積み重ねるのだ。身体がそのように変化するのに、世界の見方が古きを捨て去るはずがない。私は古代人が呪術的思想に取り囲まれた幻想的世界に生きていたとは思えない。彼らは現代人と同様に日々を現実味を感じながら生きていたのだと思う。彼らの残された文化が呪術的に映るのはあくまでも現代人の視点がそれを捉えるからに過ぎない。同様に、科学的事実に生きていると信じる現代も、違う時代の人間が見たなら十分に呪術的であるかもしれないのだ。

   私たちが環境をどう見るのかは、決して古い時代が間違っていて、現代が正しいのではない。それは、今の我々にとって妥当な見方をしているのに過ぎない。そしてそれはどの時代においても同様である。今は、「科学の時代」であり、その明快さが信じるに値するから、世界をその見方に置き換えているが、これが永遠に続くとも限らないし、決して世界の見方の正解に近づいているのでもないだろう。むしろ、「持続可能性社会」という角度で見るなら縄文時代の方がはるかに正解に近い。
   「時間は過去から現代を経て未来へ流れる。」「物事は過去より現在がより良く、未来は今より良くなる。」こういった一方向のベクトルになぞらえた考え方こそ、根底から見直す必要がある。生物学者が言う「進化と進歩は違う」という事実はもっとしつこく吹聴していいくらいだ。
   生物に下等も高等もない。ただ環境に適応しているのに過ぎない。もちろんそれは人類も同じだ。恐竜が人類より劣っているように思えるだろうか。私はそう思えない。バージェスの動物たちは絶滅したからポンコツだといった考え方は全く間違っている。我々に多くの勘違いをさせる原因は、「時間は流れ、今がその先端で、最も良い」と感じ、それを信じることにある。それを「時間は流れず、ただ適応した今があるだけ」という考えで世界を見直すと、少しその色合いが変わるはずだ。それは、ひとりの人生にも当てはまる。働き盛りの価値が高く子供や高齢者が低いという見方は「経済的生産性」の一側面でしか語れないにも関わらず、全体的に思われている。マイノリティと括られる人たちの見方も同様である。ともあれ、今の自分の存在を意識してみよう。なぜ自分はその「性」であり、その年齢にしてその「肉体状況」にあるのかを考えてみたことがあるだろうか。なぜ身体は始め小さく、やがて大きくなるのか。なぜ子供時代と大人の自分が「同じ自分」だと信じているのか? 
   ヘラクレイトスの「万物流転」という言葉を思い出す。全ては常に流動的であり、世界の今は常にそのあるいっときを認識しているに過ぎない。完全なる調和などなく流転し続けるが、万物の互いは常に関連しあっている。そこには「劣」も「優」もなく、「古」も「新」もないのだ。

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